■S:今日の聖書の言葉
1テモテ1章15節 (雅歌2章)
★「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
■O:今日のコラム
パウロの生涯を見る時、主イエスと共に歩み、主の啓示を受け、御霊に従い、肉の性質が削ぎ落とされる中で、よりシンプルになって行くと言うことが分かります。
パウロがパリサイ人であった時、彼は自分の義に立ち、自分自身に対して誇るものを数多く背負って生きていました。
しかし、ダマスコの途上で主イエスと出会った後、パウロの目は見えなくなり自分の弱さを知るようになりました。
主はある領域においては私たちを一瞬で造り替えて下さいますが、特に人格の形成においては、ゆっくりと生涯をかけて造り替えられるのです。
パウロはアナニヤの祈りにより聖霊を受け、目が開かれた後、熱意に満ちて宣教を開始し、命をかけて福音を宣べ伝え、異邦人の地に教会を建てあげて行きました。しかし、その様な素晴らしい働きをするパウロも、自分の義の強さの故に度々、人とぶつかる姿が聖書には記されています。
彼は時には、自分の使徒職を主張したり、自分の正しさを持って人を激しく叱責するようなこともありました。
しかし、人生の晩年になった時、パウロは自分を「罪人のかしら」と認識するようになり、ただキリストの十字架だけを誇るようになったのです。
逆説的なことですが、私たちは主に近づけば近づく程、徹底的に自分の罪と肉の性質を認識するようになります。そして自分の内にある罪の深刻さを知れば知る程、そこから贖い出して下さった主イエス・キリストの十字架の素晴らしさを知るようになり、心から主を礼拝するようになるのです。
天においては、自分の功績や成功、働きの素晴らしさや有名さ、知恵や油注ぎを誇る人は一人もいません。黙示録に記されている天の礼拝を見ると、皆が父なる神の栄光と、子羊キリストの贖いと救いの素晴らしさを褒め称え、礼拝を捧げているのです。主の贖いの御業は永遠と言う時間をかけても感謝し尽くせない程に偉大なものです。
日々、主を愛し、主を慕い求め、また自分の罪を悔い改めて祈ってもなお、時には全く変化しないように感じる肉の性質や状況があるかも知れません。しかし、自分の弱さや不足を認識出来るならそれは大きな恵みです。
なぜなら今日も新しく主イエスの十字架の恵みを必要とし、あらゆる時間に主イエスの十字架を仰ぎ見る特権に与るからです。
■A:考えてみよう
今日も主イエスの十字架を見上げ、その豊かな恵みにあらゆる時間、依り頼む歩みを続けてまいりましょう。
初代教会においては日に三度、十字架を見上げる祈りの時間がありました。
朝の9時 聖霊を求め、今日も十字架の死と葬り、復活に与ることが出来るように求める祈り。
正午12時 主イエスが十字架の上で私たちの罪を背負い苦しみを受けられたことを覚え、自分の肉を十字架につける祈り。
午後3時 主イエスが十字架で完成したことを覚え、今日一日の中にも主の計画が完成することを求める祈り。
この時間通りに祈ることが出来なくても、一日の中で定期的に十字架の贖いを覚えて主に感謝し、祈る時を持ちましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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