■S:今日の聖書の言葉
コリント人への手紙 第二1章4~5節
★神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
■O:今日のコラム
この箇所を読む時、主から離れて何も出来ないことを覚えます。全ては主からであり、私の責任を全て負ってくれているのは主であることに気づきます。
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」とあるように言い換えるなら、苦しみに会う時、私たちには主の慰めが必要であると言えます。なぜなら、主は私たちに必要なものをあらかじめ備えて下さるお方だからです。
そして、「どのような苦しみのときも」主は慰めて下さいます。苦しみの種類を選ばれることなく慰めて下さるのです。
例えば、主を愛するがゆえに起こる苦しみであっても、自分の失敗や間違いを犯したゆえに起こる苦しみであっても、又、幼い時、自分ではどうすることも出来なくて受けてしまった苦しみであっても、主は全て慰めて下さいます。主の御名は「すべての慰めの神」です。(2コリント1:3)
私は、主の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを、まだまだ何も知らないんだなと、思わされます。主の慰めを知らない者に、どうやって人に慰めを与えることが出来るのでしょうか?
私は継続して、自分の内にある怒りと憤りの性質を取り扱われ向き合っている最中です。この怒りと憤りの性質に向き合う時、今に至るまでの歩みの中で積み重ねられ深く根ざしていることに直面します。子どもの頃に受けた、苦しみや悲しみがいつの間にか、怒りと憤りの性質に変化していることに気づく時もあります。そして、自分には主の慰めが必要であることを、この御言葉から認めました。
主の慰めには、期限もなく条件もありません。この箇所を読む時、あらゆる時に主の御前に走り行き、主からの慰めを受け取ることは、甘えやワガママではなく、また情けないことではないと知ります。そして、「私には主の慰めが必要です。」と祈るようになりました。また、5節に「慰めもまたキリストによってあふれているからです。」とあるように、もうすでに主があふれるほどに与えて下さっている慰めを、私が知ることが出来ますようにとも祈っています。
自分の努力ではどうすることも出来ないことがあればあるほど、又、自分の弱さや罪深さを知れば知るほど、私には主が必要で、主以外に解決はないことを知ります。このお方を離れて、どうする事も出来ません。
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』」(2コリント12:9)
日々、主の御前に進み行くことを選び取り、主の愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを味わい受け取っていきたいと願います。そして、主の愛とあわれみを持つ者へと造り変えられたいと切に願います。
■A:考えてみよう
・苦しみにあった時、主の慰めを必要としているだろうか?
・苦しみを通して主から離れるのではなく、ますます主により頼んでいるだろうか?
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 おりえ 】
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