■S:今日の聖書の言葉
ネヘミヤ記8章5,6節

★エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。
エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン」と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。

■O:今日のコラム
今日の通読箇所のネヘミヤ記7,8章は、ネヘミヤ記のハイライトと言っても良い箇所かもしれません。城壁がいよいよ完成していきます。しかし、なんとこの箇所に終末の時代を見ることができるのです。一つずつ見ていきましょう。

「城壁が再建され、私がとびらを取りつけたとき、門衛と、歌うたいと、レビ人が任命された。」(ネヘミヤ7:1)

「とびらを取りつけた」とありますが、これは城壁が完成した事を意味します。ついに悲願の城壁が完成しました。それでは、城壁が完成したら何が起こるのでしょうか。それは系図の発見と任命です。

門衛とは見張り、つまり祈りを意味します。また、歌うたいは御霊による賛美、そしてレビ人はみことばを教える人です。つまり、城壁によって囲まれた中にあるみことばと御霊と祈りといえば何でしょうか。
そうです。聖所の中にある器具です。とりなしの祈りの城壁が築かれることにより、みことばと祈りと賛美が回復していきます。私たちが聖所とされていきます。これは終わりの時代に備えるためです。

7章の残りでは、部族、また一人ひとり名前を上げ、それぞれの努めに任命されていきます。主の任命と召命と聖別を見ることができます。私たちの名も天のいのちの書に加えられていることを感謝します。また、私たちは霊的においては神の子としてキリストにつながる系図に入れられていることを感謝します。

ここで、不思議な出来事が起こります。

「こうして、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、民のある者たち、宮に仕えるしもべたち、および、すべてのイスラエル人は、自分たちのもとの町々に住みついた。イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、
民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。」(ネヘミヤ7:73,8:1)

なんと、城壁が完成し、任命され、自分の町に住み着いたイスラエル人は第七の月に、いっせいに水の門に集まってきたのです。「いっせいに」とは新改訳第三版の注釈を見ると直訳では「ひとりの人のように」と書かれています。これは終わりの時代に集められる花嫁を啓示しています。

先日アテフ博士が来られた時、衝撃的な事を聞きました。ぶどう畑ははじめはイスラエルに与えられたが、それは取り上げられ、異邦人に与えられた。しかし、今、異邦人教会の中からもそのぶどう畑が取り上げられようとしているそうです。では、そのぶどう畑は一体誰に与えられるのでしょうか。それは、イスラエル人であっても、異邦人であっても、イエス・キリストにいのちをかけてついていく花嫁に与えられるとのことです。

この花嫁とは、雅歌に出てくる乙女のようであり、私たちの向かっているところです。

「ひとりの人」は、何を願い、どこへ行ったのでしょうか。「ひとりの人」の願いは「主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。」ことであり、「ひとりの人」は「水の門」に向かいました。

主に選ばれ、任命された人はみことばを慕い求めます。みことばは神ご自身であられるからです。それは私たちのルーツでもあります。私たちは神のみことばによって創造されましたから、私たちがみことばに立ち返ることはごく当然のことです。そして、「水の門」もまたみことばを意味します。城壁が完成した「ひとりの人」はみことばへと導かれます。

当時の聖書は今のような全員が持てるようなものではなく、高級品であり、祭司がそれを読み上げるというものでした。ですから、「ひとりの人」、すなわち3節にあるように「男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団」に向かって、学者エズラは律法の書を朗読していきます。そして、民は一言も聞き漏らすまいと耳を傾けたのです。

一方、学者エズラはただ語ったのではなく、みことばにわざわざ書かなくてもいいような表現であることが書かれています。

「学者エズラは、このために作られた木の台の上に立った。」(ネヘミヤ8:4a)

「木」とは聖書では呪われたものとして書かれていますが、もう一つの意味は十字架を意味します。(参ガラテヤ3章13節 注釈)
つまり、エズラは木の台、十字架の上に立ったのです。旧約であっても、新約であっても、みことばは全て十字架を土台として読んでいく必要があります。私たちもみことばを分かち合う時、学者エズラのように十字架を土台としたメッセージを分かち合っていく必要があります。

みことばは語るものだけの責任ではありません。受け取る側にも責任があります。人々はどのような姿勢でみことばを受け取ったのでしょうか。

「エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。
エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン」と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。」

民はみことばが読まれるときに立ち上がりました。これは、みことばに対する敬意を表現しています。私たちも偉い人が入ってきたなら、立ち上がって迎えるでしょう。みことばはイエス様です。どの権力者よりも偉いお方をお迎えする時、私たちは最高の敬意を評していきたいと思います。

そして、次にエズラが神を賛美すると、人々は手を上げて「アーメン、アーメン」と答えたとあります。これが、賛美のときに手を挙げる根拠です。手を挙げる事は、「自分は降参した」という意味と子どもが待ちわびたお父さんの帰りを待ち、迎えるときのように「主に対する全き信頼」を意味します。

よく、賛美のときになにもせずにぼーっとしていることがあるなら、私たちはその態度を改める必要があります。もちろん、落ち込み、傷ついた時、賛美によって癒やされ、慰められることもあるでしょう。しかし、賛美を受けるのは私たちではなく、ただひとり、イエス様だけです。ですから、賛美は受けるものではなく捧げるものです。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主に賛美をお捧げしましょう。

そして、民が次にとった行動は「ひざまずく」ということです。イスラエルの人々にとって、賛美は音楽を奏でること以上に、みことばを朗読することです。究極の賛美はみことばの朗読ということもできるでしょう。

それまで捕囚の間、長い間失われていたみことばが長い時を経て開かれたときの感動は計り知ることができません。みことばに対して「アーメン、アーメン」つまり、「それは真実です。私はそのことに完全に同意します」ということを二回繰り返すこと、これは確かなことであることの表れです。この喜びのあと、人々にやってきたのは主に対する恐れです。それゆえ、人々はひざまずいたのです。

賛美や礼拝は私たちを興奮させることもあるでしょう。しかし、興奮したからと言ってそれが主のご臨在であるとは限りません。もし、本当に主と出会ったなら、私たちは喜んでなんかいられないと思います。あまりにも聖く、神々しい神を目の前にして、私たちは死んだようにひれ伏すことしかできないでしょう。ひとりではなく、そこにいる集団がこの事を経験するなら、それがシャカイナ・グローリー、つまり、顕著な主のご臨在なのです。私は毎回の礼拝でこれを体験したいと切に切に願い求めています。

律法の書が解き聞かされたら、それだけで終わりではありません。次はレビ人がみことばを教えます。

「レビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はそこに立っていた。彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。」(ネヘミヤ記8:7b~8)

民が理解するまで、レビ人は律法を解き明かします。教会に立てられている教師的な立場の人、セルリーダーなど、教える者はこれを目標に教えていく必要があります。あいまいな私的解釈ではなく、神様が何を言われているかといことをはっきりと伝え、教える必要があります。

理解した民に起こることは何でしょうか。

「総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。『きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。』民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。」(ネヘミヤ記8:9)

なんと、民は泣いてしまったのです。喜びの涙もあると思いますが、次の10節に「悲しんではならない」と書かれているので、おそらくこの涙は悲しみの涙だと思います。なぜ、民は泣いたのでしょうか。それは、律法の教えと、自分たちの生き方があまりにもかけ離れていることを痛感したからです。

これが悔い改めの原点です。

悔い改めとは、的外れから的を得た生き方への方向転換です。そのためには、基準を知らなければいけません。基準とはみことばです。みことばをみことばとして受け取って、はじめて基準を知り、自分がその基準とどれだけ離れているかを知ることができます。

城壁の祈りの結果は、このような悔い改めへと導かれていきます。そして、「ひとりの人」はみことばの水によって洗い清められていくのです。しかし、悲しむだけが悔い改めではありません。悔い改めは喜びの道のりです。

「さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」(ネヘミヤ8:10)

主は私たちを聖められます。ときには何かを手放さなければならないこともあるでしょう。ぶどうがさらに良い実を結ばせるために、農夫は枝を剪定します。それには痛みが伴いますが、後には豊かな実を結ぶことができます。それゆえ、ネヘミヤは上のみことばのように民を励ましました。みことばが開かれ、まことの悔い改めへと導かれることは聖別であり、喜びの日となります。

実は、これらのことは偶然起こったのではありません。神様が定められたカレンダーに従って民に起こったことでした。

「こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない、と書かれているのを見つけ出した。 」(ネヘミヤ記8:14)

そうです。このことが起こったのは仮庵の祭りの時期だったのです。

主が定められた三大祭りの中の秋の祭りがこの仮庵の祭りです。そのスタートはラッパの祭りで始まり、大贖罪日を経て仮庵の祭りに至ります。仮庵は結婚を啓示する祭りです。その前に経なければならないのはラッパによる目覚めと熱心に悔い改める大贖罪日です。

これを経たものが花婿なるイエス・キリストの花嫁にふさわしい「ひとりの人」とされていきます。聖められた花嫁だけが聖なる主と共に住むことが許されます。

この仮庵の祭りは7日間続きます。仮庵の祭りは喜びの祭りです。それを理解するなら、このみことばも理解できます。

「神の律法の書は、最初の日から最後の日まで、毎日朗読された。祭りは七日間、祝われ、八日目には定めに従って、きよめの集会が行われた。」(ネヘミヤ記8:18)

これはまさに天の光景です。天においてはただ一人、主の御名だけがあがめられます。そこには主の栄光が満ち満ちています。神はことばですから、みことばが満ち溢れているのが天国です。

まもなく主は迎えに来られると信じます。この天の光景にあこがれ、今日も城壁を築き、悔い改め、みことばを朗読していきましょう。それが天に国籍を置いた者の生き方です。

聖書の中で「祝福」という言葉が出てきます。私たちは祝福というと、繁栄するとか、増え広がるというイメージがあるかもしれません。しかし、聖書で使われる祝福は「バラーク」という言葉が使われており、この意味は「ひれ伏す、褒め称える、従う」という意味です。

まさに、ここに書かれいる民は本当の祝福(バラーク)を体験したのです。全ての人がみことばの真理に触れ、聖書が言う祝福を体験することができますように。

■A:考えてみよう
今日の通読箇所、ネヘミヤ記7、8章を自分の聖書を開き朗読してみよう。そして、黙示録21、22章を朗読し、ネヘミヤ記と比較してみましょう。

まずは私的解釈を加えず、みことばをみことばとして、わからないことがあってもそのまま読みましょう。そして、静まり、みことばに思いを馳せましょう。その時、雑念がやってきます。様々なやらなければならないことが思い浮かびます。それらをノートに書き、忘れてしまい、すぐにみことばに立ち戻りましょう。

まだ城壁の祈りに取り組んでいない方は、下記の映像を見て学び、今日から始めていきましょう。

2019年7月21日第三礼拝

ひとりの人、キリストの花嫁として、今日も聖められていきましょう。

■P:祈り
愛してくださる天のお父さん、ありがとうございます。あなたのひとり子、イエス・キリストの十字架によって、私たちに永遠恩命が与えられていることを感謝します。
復活されたイエス様は家を建てるために天に戻られ、まもなく戻って来られようとしていることを感謝します。それがいつかはわかりません。しかし、今日戻って来られても良いように、備えをしていくことができるよう助けてください。
何をしていいかわからなくなりますが、地に足をつけ、みことばと祈りの生活から始めることができるように導いてください。地味であり、退屈に見えるこの歩みが永遠のいのちへと続く狭い門であると信じます。
間もなく来られるイエス様をお迎えするために、今日も悔い改めの喜びの道のりを歩むことができますように。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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