■S:今日の聖書の言葉
エズラ記10章44節
★これらの者はみな、外国の女をめとった者である。彼らの妻たちのうちには、すでに子どもを産んだ者もいた。
■O:今日のコラム
今日でエズラ記が最後になりますが、エズラ記の最後のページには、カタカナの名前が沢山書いてあります。これは、何の名前でしょうか?
今日の御言葉は、エズラ記の一番最後の節になりますが、エズラ記の最後は、26節にもわたって「”外国の女をめとる罪”を犯した者の名前」が書かれています。簡単に言えば、罪を犯した者の名前をエズラは書き記し、公にしたのです。そして、この罪を犯した名前のリストをよく見ると、あることに気がつきます。
総督ゼルバベルと神殿建設を指導した大祭司ヨシュアの子たち、またヨシュアの兄弟たち(18節)、そして22節までは「祭司たち」の名前、23節からは「レビ人」の名前が書き記してあります。他にも「歌うたい」や「門衛」の中にも外国人をめとっている者がいました。この名前のリストは「指導者」や「主の宮で仕える者」の中にも罪がはびこっていたことを明らかにしています。
私たちの父祖たち、イスラエルの民、そして信仰の先輩たちが犯した罪の記録、数々の失敗が事細かに(今日の箇所に至っては名前までも) 聖書に書き記されているのは何のためでしょうか。彼らの歩みを通して私たちが学び、教訓とするためです。イエス様が来られるその日まで、最後まで走りきることができるように、終わりの時代を生きる私たちのためなのです。
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」(1コリント10:11)
黙示録20章最後の大きな白いさばきの御座で、神様が数々の書物を開かれます。いのちの書に名の書き記されていない者たちは、火の池に投げ込まれることが書いてあります。もちろん、悔い改める者を主は赦してくださいます。実際エズラたちの悔い改めによってさばきは下りませんでした。
しかし「自分をさばくものはさばかれない。」と書かれてあるとおり、私たちは日々自分自身を、神様の御言葉に照らし出していただくことが必要です。
「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。」(1コリント11:31)
私たちは毎日、罪に対する自覚をどれだけ持っているでしょうか。罪に対する態度の中に「どうせ赦されるのだから」という思いがないでしょうか。神様を恐れ敬う心、砕かれた心、さばきを慕う心、きよさを求める心があるでしょうか。花婿なるイエス様が戻ってこられる準備をする、花嫁の心があるでしょうか。
この秋の仮庵の祭りのシーズンに、イエス様が再び来られることを、毎日覚えることができますように。どれほどに自分の罪が深刻であるのか、そしてどれほどにイエス様の十字架の恵みが真実なものであるのかを知り、毎日イエス様の元に走り寄ることができますように。
「…しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)
■A:考えてみよう
今日の箇所に沢山の名前が書いてあったように、今は沢山の神様の器、牧師先生や働き人が倒れ、背教が起こっている時代であると学びました。
今日、自分の罪を告白し祈るとともに、それぞれに与えられている教会の指導者、牧師先生を始め、教会で仕えている者たちのためにとりなし祈りましょう。
民の罪を背負い、悔い改め、涙を流してとりなし祈ったエズラのように、イエス様のとりなしの霊が、やがて戻って来られるイエス様を待ち望むお一人お一人の上に、豊かに注がれますように。神の家族で互いにとりなし祈る堅固な城壁が、今日もまた一歩、主のとりなしの中で築かれていきますように。
「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。」(2テサロニケ2:3)
「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 こばあい 】
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