■S:今日の聖書の言葉
歴代誌 第二 26章18節(同25章)
★ 彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって、彼に言った。「ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは不信の罪を犯したのです。あなたには神である主の誉れは与えられません。」
■O:今日のコラム
聖書の律法は確かであり決して揺らぐ事がありません。しかし、聖書を読むと律法に違反して罰せられた王と、罰せられるどころか主からの誉れを受けた王がいます。
まず罰せられた王として思い浮かべるのがイスラエルの初代王のサウルです。彼は預言者サムエルが捧げるはずだった主へのいけにえを、自分の手で捧げて主の怒りを招く事となりました。
また今日の箇所に登場するウジヤ王もまたその一人です。彼は祭司が捧げるはずの香を自分の手で捧げようとして主からの怒りを受ける事となります。
では、主の律法に違反したにもかかわらず、逆に主からの誉れを受けた王とは誰でしょうか?
それはダビデ王です。彼は祭司しか着てはならない、白い装束とエポデを身につけて、主の契約の箱の前で踊りました。
また本来ならモーセの幕屋において、至聖所の中に安置しておかなければならない契約の箱を、自分の幕屋に運び、そこで律法に書かれている祭儀無しに、主の箱の前で絶え間ない祈りと賛美を捧げるレビ人と祭司を仕えさせました。
これは明らかに律法違反であり、主の怒りを招く行為であるにもかかわらず、主はそのダビデの心と礼拝の姿勢を高く評価し、ダビデとその家に大きな祝福と誉れを与えました。
この王達の違いは何なのでしょうか?
それは主を愛し、へりくだり、心から主に仕えようとするのか?
それとも主の前で高ぶり、主を軽んじ、自分の力で主の前に出て行こうとするのかの違いです。
主は創世記の初めから、カインとアベルの捧げ物においても、人の力で心の伴なわない捧げ物ではなく、へりくだり、主の心を切に求め、犠牲を払って捧げられる物を喜んで受け入れておられます。
今日私達は共に自分の心をチェックしましょう。
私達の心の中に「主に捧げてあげている」というような義務感や高ぶりの思いは無いでしょうか?
今日ウジヤ王の姿を教訓として、へりくだり心を尽くして主を求める事を願いましょう。聖霊様に日々新しく砕かれ造りかえられる事を求めましょう。
■A:考えてみよう
「聖霊様、今日も私の自我を砕き、主に喜んで従う者としてください。私の内に真実な心と聖霊様の導きによって礼拝する心を下さい。」と祈りましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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