■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの手紙 第一 2章28節

★そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

■O:今日のコラム
もしあなたがテレビドラマを見ていて、女優が思いを馳せている男性に「愛してる」と言い続けるのですが、実際は彼を待たせたり、彼の願いを何も聞かず、自分の要求ばかりを彼に押し付けています。それだけではなく、彼に内緒で何人もの男性と仲良くしています。そういう場面を見るなら、あなたはどう思いますか?彼女は彼を愛していると言えるでしょうか。

私たちも神様に対して同じような事をしてしまっているかもしれません。「私は二股なんてかけていない!」というかもしれませんが、信仰においてはその可能性があるのです。

今日の通読箇所であるヨハネの手紙 第一の2章には、「神を愛すること」が書かれています。皆さんは神様を愛していますか?答えはもちろん「Yes」だと思います。では、その愛をどのようにして確認することができるでしょうか?愛は目に見えないあやふやなもののように思えるかもしれません。感情的なことと思うかもしれませんが、みことばはそのようには言っていません。神を愛するとはこのことです。

「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。」(1ヨハネ2:3,4)

上のみことばをじっくりと読み返してみましょう。神を愛するとは何であると書かれているでしょうか?ここでの「知る」とは、ギリシャ語で「ギノースコー」と良い、例えるなら夫婦が一体となるという、関係を表す言葉に近いニュアンスで書かれています。つまり、神を知る=神を愛することは、神の戒めを守ることなのです。

考えてみたらその通りに思えるでしょう。愛している人の言うことであれば、なんとかしてそれを守り、実現したいと願い、行動するはずです。このように、神を愛するということはとても具体的なことなのです。

そして、神を愛するということは、一度だけ「愛してます」と言って、あとは無関係になるのではなく、「愛し続ける」ことが大切です。

「しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。 」(1ヨハネ2:5)

みことばを守り続ける者は、神の愛が全うされ、神のうちにいるということがはっきりと分かるのです。愛はとても具体的なことなのです。しかし、神を愛することはそんな簡単なことではなこともあります。

「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(1ヨハネ2:6)

「キリストが歩まれたように」とはどのような歩みでしょうか。そうです。十字架の歩みです。私たちはイエス様だけを十字架につけてしまいます。もちろん、イエス様しか私たちの罪を贖うことはできないのですが、私たちもイエス様とともに十字架につけられることが必要です。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

「苦しいことだけイエス様におしつけ、自分は祝福だけを受けたい」というのは、本当の信仰ではありません。本当の神の子となるためには、キリストと苦難をも共にしなければならないのです。

「もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(2コリント1:6)

それでは、具体的に十字架につくとはどういうことでしょうか。それは、肉の性質に従うのではなく、御霊に従うということ。みことばを実行するということです。自分がやりたくないことであっても、信仰をもってみことばに従い続けることです。自分の力だけではそれを達成することはできません。ですから祈るのです。ですから助け主なる御霊を求めるのです。

そこで、すべての人に共通する、自分の力で達成することが難しいが、神様が私たちに願っていることは何でしょうか。ヨハネはそれを一言でまとめてくれています。

「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。」(1ヨハネ2:9,10)

そうです。第二の戒め、隣人を愛することです。これが私たちの十字架の一つです。今は終わりの時代であり、イエス様ご自身が、そのときに多くの人の愛は冷たくなると言われています。

「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。」(マタイ24:12)

そして、その時、反キリストが立つとも言われています。

「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべきもの』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)」(マタイ24:15)

ヨハネもまた、このように言っています。

「小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。」(1ヨハネ2:18)

反キリストは誰でしょうか。あの国のあのリーダーでしょうか。そうかもしれませんが、それは主のときが来たら自然と出てきます。私たちが注目しなければならないのは、他人ではなく、私たち自身です。私たちの内の聖なる所、つまり神様がご支配される領域に自分自身や欲望、この世の教えなどが立っているのを見たら、それこそがキリストの教えに反する反キリストです。

「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」(1ヨハネ2:22)

私たちが「イエス様を愛します」と言いながら、みことばに従っていない生活をしているなら、私たちが反キリストです。変えられなければならないのは他の誰でもない、私です。

自分が偽り者か、そうでないかを見分けるポイントをヨハネは示してくれています。

「だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。」(1ヨハネ2:23)

本来であれば、「否認するものは父を持たず、認めるものは父を持っている」と書いて良いはずが、「否認する者は父を持たず、告白するものは父を持っている」と書いています。これはヨハネがよく書く書き方です。つまり、認める事は告白することであり、認めないことは告白しないことであると言うことができます。

私たちの口の告白はイエス様を愛する告白でしょうか。それとも否認する告白でしょうか。偽り者とならないためにも、御霊により頼み、主イエス・キリストの来臨を待ち望みましょう。

「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」(1ヨハネ2:28)

■A:考えてみよう
私たちの口の告白を点検しよう。

何か予期しないことが起こった時、私たちの口から悪い言葉を出していないだろうか。「すべてのことについて感謝しなさい」というみことばのとおり、たとえ自分が予期しなかったことが起こったとしても「主よ感謝します!」と言えるだろうか。

これは一つのトレーニングです。私たちの考え方をみことばによって変えていただく必要があります。小さく、地味な作業に見えるかもしれませんが、主はその事を大きく評価してくださいます。

■P:祈り
私たちを愛してくださる天のお父さん、あなたの愛と恵みを心から感謝します。あなたが遣わしてくださった御子、イエス・キリストの従順を見ます。イエス様はご自分からは何も発せず、ただ父の御心だけを話し、行われました。父の戒めを行うことを通して、愛を表してくださったイエス様、あなたを心から感謝します。
イエス様はその御口になんの偽りもありませんでした。どうか私をそのような生き方をさせてください。こう願っても、私の内からは罪の性質からあいかわらずみことばからそれた言葉が出てきてしまいます。どうか、聖霊様、弱い私を助けてください。
今の自分の現状を認め、なおも主の恵みにより頼み、変えられることを信じ続けます。そして、自らの努力によっても変わることを選択し続けます。イエス様により頼んでいない部分があるなら、それは霊的な浮気です。どうか、イエス様だけを見つめ、イエス様だけを愛する生き方をさせてください。その行程がイエス様を愛する生き方であることを教えてくださったことを感謝します。

愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【しゅん】

カテゴリー: マナメール

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