■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書15章18~20節
★立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
■O:今日のコラム
有名な放蕩息子の話から、私たちは多くのことを学ぶことが出来ますが、その中で、今日心に留めたいのは、父の姿です。
父の身代、すなわち、いのちそのものに値する財産を、放蕩して湯水のように使った息子を、父は「かわいそうに思った」とあります。別訳では「あわれに」「いとおしく」という意味です。
子に対する父のまなざしは、いつもあわれみに満ち、愛に満ちています。「あの財産を何に使ったんだ?」「どうしてこうなったんだ?」などと、息子を問いただしたり、責めることはしませんでした。むしろ、いつ息子が帰ってくるだろうか…と家の外でずっと待ち続け、父の方から帰ってくる彼を見つけ、走り寄って抱き、口づけをしてくれるのです。
この箇所を読む時に、天のお父さんの愛の大きさを感じて涙が溢れます。私自身も、どれだけ自分勝手な歩みをして、父を待たせたんだろうかと。こんな私を抱きしめ、口づけをもって親密な愛の交わりに入れられた恵みを、ただ感謝せずにはいられません。
救われた時だけでなく、日々の生活を思い起こしていきたいと思います。多くのクリスチャンが、救われた、で終わってしまい、日々の生活を顧みることをしません。救われてもなお、私たちは、自分勝手な歩み、この世の楽しみや自分の欲に時間を無駄に使ってしまっていないでしょうか。
父はしもべたちにこのように言います。
「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」(ルカ15:24参照)
なぜ、父はこのように言ったのでしょうか。息子は、実際に死んではいませんが、彼が行なっていたことは死んだ状態でした。御言葉にはこのようにあります。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:1~3)
この御言葉にあるように、救われてもなお、今も罪の中、この世の流れに従っているなら、霊的に死んだ状態なのです。
イエス・キリスト、このお方がいなければ、私たちも罪の中に死んでいた者であり、本来、御怒りを受けるべき子でした。しかし、父は私たちを愛し、キリストと共に生きる者として下さったのです。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、ーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのですーキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:4~6)
今週1週間の歩みを振り返り、自分の罪を認め、悔い改めて、父のもとに帰りましょう。父の前に、告白しましょう。悔い改めを通して得られる恵みは、父との関係の回復です。これを父は、どんなに願っておられるでしょうか。そして、父のもとに帰る時に、この放蕩息子の父が、息子に一番良い着物、指輪、くつをはかせて下さったように、本来、与えられているアイデンティティー、権威、身分が回復します。
そして、私たちを、ともに天の所にすわらせてくださる父と、今もとりなして下さっているイエス様と聖霊様と共に、私たちもとりなし祈る者となることが出来ることを感謝します。
■A:考えてみよう
・今週の歩みを振り返り、まず自分自身が悔い改め、父のもとに行きましょう。本来、与えられている神のかたち、権威が回復するように祈りましょう。
・まだ救われていない家族、信仰から離れてしまった兄弟、友人がいるなら、父のもとに帰ってくることが出来るようにとりなし祈り続けましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ささまな 】
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