■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書13章22~24節
★イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。 すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。
■O:今日のコラム
この御言葉に、イエス様の教えを聞いた人の素直な反応が記されています。このことから私たちはイエス様が語っておられた聖書的な福音メッセージを、もう一度とらえ直す必要があります。
現代は「あなたは無条件で愛されている。」、「あなたはありのままで良い。」、「あなたには価値がある。」、「信じるだけで良い。そうするなら後は何もしなくても救われている。」というような福音メッセージが多く語られています。もちろん私たちが主の愛を知り、主にある自分の価値を知り、主にある正しいアイデンティティーを持つことはとても大切なことです。
しかし、上記の御言葉で、イエス様が町々村々で教えておられた教えを聞いた人は、「ああ。私は今のままで愛されているから大丈夫だ。安心と慰めを得た。」と言ったのではなく、「主よ。救われる者は少ないのですか。」という疑問を持ったのです。
私たちはこの質問を受けた時、どう答えるでしょうか。誰かから「救われる者は少ないのですか。」と聞かれたなら、「そんなことは無いよ。神様は全ての人を愛しておられるので、どんな人でもイエス様を信じるだけで、何もしなくても救われるんだよ。」と答えるでしょう。
しかし、ここで福音の中心であられるイエス様ご自身が、この質問に対して「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」と答えておられることを心に覚える必要があります。
もちろん私たちは福音に対して何も付け加えることは出来ません。イエス様の十字架の贖いのみが私たちの罪を赦し、その流された血潮だけが全ての汚れから私たちをきよめます。このイエス・キリストを信じる信仰によって私たちは救われるのです。しかし、現代の私たちが持っている「信じる」という感覚と、初代教会の人々が捉えていた「信じる」ということには大きな違いがあります。
現代の「信じる」とは、生き方とは無関係で、その概念を知識の中で持っていることを意味しますが、初代教会の「信じる」とは、その通りに生きることを意味していました。信仰という言葉はギリシャ語で「ピスティス」ですが、それは「忠実、真実」という意味でもあります。信じたことを生きる時、私たちは主にある真の信仰が確立され、忠実な者の歩みをして行くことが出来るのです。
ではどの様にして私たちはそう生きることが出来るのでしょうか。人間的な「努力」だけではどう頑張っても神の義の基準に達することは出来ません。
このことにおいて主は私たちをフルサポートして下さっています。父なる神はご自身のひとり子をお与えになった程に私たちを愛し、絶えず眠ることも、まどろむことも無く私たちを見守り続けて下さっています。主イエスは、十字架で命を捧げ、私たちの贖いを完了し、その血により私たちの罪をきよめ、今も父の右の座で私たちの為にとりなし続けて下さっています。聖霊なる主は、助け主として私たちの重荷を担い、深いうめきを持って私たちの為にとりなし続けて下さっています。さらに主は御使いたちを送り、私たちの人生に与えられた主の使命が成し遂げられる為に助けを与えて下さっています。
主の全ての助けを受けて、私たちは主から来る熱心による努力によって、狭き門、十字架の道を日々歩んでまいりましょう。
私が日々の悔い改めの歩みにおいて、自分の深い弱さや自分の力ではどうすることも出来ないような罪の性質を主の御前に告白する時、主はその都度、私のことでは無くご自身が成されることを教えて下さり、「主の救いに信頼しなさい。」と語りかけ続けて下さいます。
狭き門を行く為に、主は完全なサポートをして下さいます。この道を行くことは主との共同作業によって成し遂げられます。主の道を行きたいと願い求める全ての人に、主はその道を行く為の新しい力と恵みを日々与えて下さいます。
■A:考えてみよう
今日も聖霊様の力を受け、十字架の死と葬り、復活を経験することが出来ますように。
御霊の導きの中で、主の細い道、十字架の道、狭き門を進んで行くことを求めて祈りましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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