■S:今日の聖書の言葉
箴言11章24節
★ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。
■O:今日のコラム
今朝の箇所は、口語訳ではこう書かれています。
「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある」
つまり、単なる「散財」ではなく、物惜しみせずに人に与えるならば、与えたその人自身が豊かにされる、という聖書の原則であります。
イエス様ご自身が語っておられます。
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」(ルカ 6:38)
このことに関して、忘れられない体験があります。
私は中学1年生のとき「クラス全員から無視される」という、いじめに遭いました。ひとりのボスがいて、すべて彼の指示でした。みんな「次は自分が標的にされるのではないか」と恐れて、誰も抵抗できませんでした。ところが、そんな中で、定期テストの前になると、決まって私に電話をかけてくる子がいました。
彼は「今度のテスト、何が出るの?」と言って、こっそり私に訊いてくるのです。学校では彼も私を無視しているのです。でも、それも仕方ないと思って、一生懸命、教えてあげました。先生が「ここは大事ですよ」と言った箇所を伝えると、その内容を理解していないので、さらにその説明をします。1回につき1~2時間。それが試験期間の数日前から、試験が終わるまで毎日です、、、。大変でしたが、クラス全員から無視されている私にとって、彼からの電話は救いであり、喜びでした。
これを続けて一体何が起きたでしょう?教えてあげた彼は、正直、あまりパッとしませんでした、、、。ですが、私の成績はクラスでトップになりました。中学卒業時は学年2位となり、附属高校へは特待生として迎えられ、学費を半年間免除されました。
ここで私は教訓を得ました。「勉強をいくら教えてあげても、教えた相手が自分を超えることはないし、むしろ教えた自分に益となる」のちになって、今朝の箴言の御言葉を知り、自分の体験が確証されました。
さて、余談ながら、いじめの結末をお話ししたいと思います。
私は、このいじめに遭い、初めて神様に真剣に祈りました。それまで私は、クリスチャンホームでしたが、祈りと言えば食前の祈りくらいで、形式的でした。しかしクラス全員から無視されるという辛さの中で、ひとりベッドの上で、かのいじめのボスの名前を挙げて祈りました。その瞬間、不思議に部屋の空気が変わったことを覚えています。
そして、2年生に進級する際、私とボスは別々のクラスとなり、いじめはなくなりました。そして、何と今度はそのボスがクラス全員からいじめられることになってしまいました。さらに数年後、私はそのいじめのボスだった彼と親しい友人となりました。(ハレルヤ!)
閑話休題。
主は私たちクリスチャンに対して「与える生き方」を願っておられます。皆さん、何でも自分に与えられているものを、惜しみなく分かち合おうではありませんか。
私は「教会ピアノ奏者のために」というWebサイトを作って、自分が奉仕しながら学んだことを分かち合っています。もう10年近く続いていますが、絶えず質問やリクエストが寄せられ、私自身が学ばされています。私自身は正式な音楽教育を受けたこともなく、つたない内容で、まさか、こんなに反響があるとは思ってもいませんでした。しかし、誰かのお役に立っているようで、ただただ感謝です。
■A:考えてみよう
私は「与える生き方」だろうか?
物惜しみする心はないだろうか?
■P:祈り
主よ、今日も「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒 20:35)と言われた、あなたの御言葉を実践する一日とさせて下さい。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 よしかず 】
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苦しみに会うことは良いことです!
主の祈りに感謝します。祈っています。