■S:今日の聖書の言葉
歴代誌第二27章2節
★彼はすべて、主の目にかなうことを行った。父ウジヤが行ったとおりである。ただし、彼は、主の神殿に入るようなことはしなかった。民はなお滅びに向かっていた。
■O:今日のコラム
とりなしを通して城壁を築くことが継続して語られています。アテフ師の学びを通して、とりなしとはアロンがそうであったように実際にいのちと死の間に立つこと、死に直面することなのだと受け取りました。
「モーセはアロンに言った。『火皿を取り、祭壇から火を取ってそれに入れ、その上に香を盛りなさい。そして急いで会衆のところへ持って行き、彼らの贖いをしなさい。主の前から激しい怒りが出て来て、神罰がもう始まったから。』アロンは、モーセが命じたように、火皿を取って集会の真中に走って行ったが、見よ、神罰はすでに民のうちに始まっていた。そこで彼は香をたいて、民の贖いをした。彼が死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ。」(民数記16:46~48)
第二歴代誌26章には、ヨタムの父ウジヤ王が、主の神殿に入って香をたこうとしたという記述がありますが、それは主にも人にも受け入れられないどころか、彼の身に皮膚病が表れるという形でさばきが下ってしまいました。彼の心が主に対して高ぶってしまったゆえです。
「しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入った。」(2歴代誌6:16)
そのためヨタム王は、父ウジヤの身に起きた出来事を恐れてか、王としては主の目にかなうことを行ったという評価に対して、主の神殿には入らず(即ちとりなしをささげず)、民がなおも滅びに向かっていたと記されています。
私たちはキリストにあって、関わりの近しい隣人や世の中に対し、滅びに向かい突き進んでいるかのような歩みを中にはしている人を見るならば、主の御前にとりなし、彼らが立ち返りいのちを得るように祈ることができる特権があたえられています。
しかし、その特権は私たちから出たことではなく、全てあわれみ深い主から出たことです。ですから、私たちの心は御霊によりますます謙遜を学び、自分の力でなく主の力を誇り、主と一つとなったとりなす者の心へと変えられていきたいと思います。
とりなしの実践にあたり、教会では以下の祈りのプロセスを経ることがすすめられています。
1 詩篇51篇を朗読する。(自分自身の罪の悔い改め、きよめ)
2 12の血潮の宣言する。(祭司としての備え)
3 人々の名前を読み上げ主の御前にとりなしをささげる。
「わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。――主の御告げ。――」(エレミヤ30:21b)
キリストの尊い血潮により、主が私たち一人一人をみもとへと召してくださっています。主に近づくことの誉れと責任を真摯に受け止め、今日も大胆に御前に進み行き、務めを全うすることができますように。
■A:考えてみよう
日々悔い改めの恵みとイエス様の血潮を受け取り、御前に進み行きとりなしをささげよう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ぺい 】
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