■S:今日の聖書の言葉
歴代誌第二26章16~18節

★しかし、彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。彼は彼の神、主に対して不信の罪を犯した。彼は香の壇の上で香をたこうとして主の神殿に入った。
すると彼のあとから、祭司アザルヤが、主に仕える八十人の有力な祭司たちとともに入って来た。
彼らはウジヤ王の前に立ちふさがって、彼に言った。「ウジヤよ。主に香をたくのはあなたのすることではありません。香をたくのは、聖別された祭司たち、アロンの子らのすることです。聖所から出てください。あなたは不信の罪を犯したのです。あなたには神である主の誉れは与えられません。」

■O:今日のコラム
ウジヤ王(アザルヤ王とも呼ばれる)は初めは良い王様でした。しかし連戦連勝し周囲の国々に対して強くなると彼の心は高ぶりました。そして祭司しか許されていない務めをしようとして、主に打たれていましました。

私たちの中には、隠れているだけで現れていない罪の性質というものが存在します。炭酸の泡のように揺さぶられるときに明らかにされるのですが、それはそのときに生まれたものではなく、元々自分が持っているものです。

不品行、富、名声の誘惑は、私たちの中に隠れています。今までにそれらに勝利してきた経験がある方も沢山おられるでしょうが、新しいレベルの誘惑に会うときに再び私たちの中にあるものが明らかにされるでしょう。ウジヤ王もそうだったのです。

それらがあることが明らかにされることにガッカリしないでください。私たちには罪に対する勝利、イエス様の十字架があります。罪が分かるからこそ救いがあるのです。その罪を十字架にはりつけにしてしまいましょう。そうして私たちから不純なものが取り除かれていき、純真にイエス様を愛する者に変えられていくのです。

私たちの信仰が困難を乗り越えるための信仰であるなら、乗り越えたら主を求めません。私たちの信仰が世での成功のためであるなら成功したら主を求めるモチベーションはなくなります。私たちの信仰の歩みが右にも左にもそれることなく、イエス様を目指して真っ直ぐに歩む歩みでありますように。

マタイ25章に出てくる10人の乙女たちは、みな御言葉(ともしび)を持っていました。そのうち5人は油(礼拝の生活)も持っていました。しかし全員が世にフォーカスし、世のぶどう酒にまどろんで眠り、イエス様から目を離してしまったのです。

世のものよりイエス様を愛し、信仰を利得の手段とせず、主をお喜ばせする純真な愛で愛せるようになりたいと願われるでしょうか?そのための道は十字架の道に他なりません。

■A:考えてみよう
自分を捨て、日々自分の十字架を負って、イエス様が歩まれた十字架の道を主と共に歩みましょう。それは楽しい道であり、喜びの道であり、苦しみの道であり、良い道であることを覚悟し、信じましょう。

■P:祈り
主よ私は愛する方のもの。愛する方は私のものです。その喜び、その幸いをますます知ることができますように。私の希望、私のいのちはあなたにあります。あなたの道を歩ませてください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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