■S:今日の聖書の言葉
エペソ人への手紙1章4~5節

★すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

■O:今日のコラム
先日開かれた、「イエス様の血潮を宣言する祈り」の著者であるアテフ博士のセミナーで多くのことを学びました。その学びの中で、「召し」についての学びがあり深く学ぶ時となったことを感謝します。

「召し」とは、英語では「Calling」と言われますが、「そのことのために神様に名前を呼ばれ、選び出された」とも言い換えることができるかと思います。自分が何のために造られたのか、自分が何のことのために神様から名前を呼ばれ、選び出されたのかを知って生きることは非常に重要なことであると信じます。自分が選ばれた理由と目的を知るなら、私たちの日々の歩みは力強いものとなるでしょう。

「召し」には「一般的な召し」と「特別の召し」というものがあります。「一般的な召し」とは全ての人にあてはまるもので、すべての人に与えられているものです。そして、もう一つは「特別の召し」です。それは、個人によって違い、その人その人によって神様が特別に託されている神様のご計画と目的です。

私たちは、「自分に与えられている召しはなんだろう。」と、個人的に与えられているこの「特別な召し」を知りたいと願います。けれども、私たちは、まずこの「一般的な召し」というものを受け取る必要があります。私たちが選ばれた理由、私たちすべての者が造られた目的、すべての者に主が願っておられることとはなんでしょうか?

神様が創造の前から、私たちに対して立てておられた計画、私たちを選ばれた目的がなんであるのかを、今日の聖句が教えてくれています。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:4,5)

父なる神は、世界の創造の前に、私たちを御子イエス様にあって、ご自身のものとして私たちを選んでくださいました。私たちは誰のものでもなく、天地を造られた方のものです。

何のために選ばれたのでしょうか?

詳訳聖書には「それは、私たちが、きよい者、神様のために聖別された者、また愛において神の御前で責められるところのない者となるためです。」と書かれています。そして、私たちを「ご自分の子にしようと」計画されていました。

「神の子」として生きるように私たちは定められ、「きよい、責められるところのない者」となるために選ばれました。「神の子」、また、「神の家族」として生きること。これは、私たちすべての聖徒たちに与えられている「一般的な召し」です。

アテフ博士は「この『一般的な召し』に、恐れをもって忠実に従って生きる時に、個人個人に神様が定められた『特別な召し』が開かれていく。」と教えておられました。

私たちは、果たして、「神の子」として確信をもって歩んでいるでしょうか?自分の父が全能なるお方、愛に溢れ、全信頼を置くことのできる完全なお方であるという確信をもって歩んでいるでしょうか?父なる神の許しなしには、自分の髪一筋(ひとすじ)も失われることがない、という平安のうちにいるでしょうか?

神様が私たちを選んだ目的は「きよい者となるため」です。それは義務ではなく、神様のご計画です。

炊飯器で洗濯物を洗うおうとするなら、とてつもなく不便で、場合によっては壊れてしまうでしょう。けれども、炊飯器でご飯を炊くなら最高のパフォーマンスをすることができます。私たちが、神様のきよさにあずかることができるようにと、務め、きよめられることを追い求めるなら、神様が私たちの人生にご計画されていることを最高のかたちで解き放つことが出来ると信じます。

きよめられること、聖別された者となること、とはなんでしょうか?「聖別される」とは「きよいものとして取り分けられる」とも言えます。

この世はサタンの支配の元にあるいわゆるバビロンの文化、罪と汚れに満ちたサタンの文化です。そのような文化の中で生きてはいても、私たちはそこから「きよいものとして区別され、取り分けられた者」の歩みをしなくてはなりません。

それは修道院で生活する、ということではありません。私たちの日々の生活で、私たちの見るもの、聞くもの、語ることばを見張る必要があります。決して簡単なことではありません。けれども私たちが務めなくてはならない部分であります。

禁欲主義に走ることでもありません。「あれが悪い」「これが汚れている」と自分を制する以上に(もちろん汚れていることを忌み嫌うことは良いことですが、それ以上に)、きよいお方を愛すること、この御方が喜ばれることに思いを向けることに努める必要があります。主の愛と恵みを体験するならば、「自分をこの罪、この誘惑から切り離さなければ…」と必死になっていたあらゆる世の楽しみが魅力を失っていくでしょう。

ですから、主の愛の偉大さを知ること、自分の罪深さとその上に偉大な神様の赦しと恵みの偉大さをもっと知ることを切に求めていきましょう!そのことを通して、今まで手放せなかったものを手放すことができ、自分を束縛し支配していたものから自由にされ、喜びに満たされるようになることを祝福します!

神様は、私たち信じる者一人ひとりに違ったご計画と召しを用意しておられます。その「特別な召し」が開かれるために、私たちは先ず、「神の子」としての生き方、また、「神のために聖別された者」としての歩みを確かなものにしていきたいと願います。

■A:考えてみよう
自分はこの「一般的な召し」、神の子としてのアイデンティティーを握っているだろうか?その真実にどれだけの確信をもっているだろうか?

自分は「聖別された者」として生きているだろうか?バビロンの文化に、どれほど調子を合わせているだろうか?

私の日々の目で見るもの、耳が聞くもの、語る言葉は、バビロンの文化と御国の文化、どちらに属しているだろうか?

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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