■S:今日の聖書の言葉
ガラテヤ人への手紙5章25節
★もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
■O:今日のコラム
パウロはこの箇所に至るまで、ガラテヤの人々に対して「律法によって生きること」と「御霊によって生きること」について教えています。
律法によって生きるためには、律法の書に書いてある、すべてのことを固く守り、実行しなければなりません。律法を完全に守り行うならば、律法によって生きることができます。しかし、律法によって神の前に義と認められる者は一人もいません。
なぜなら、律法が求める基準は、ただ行うことではなく、心からそれを守り行うことだからです。山上の垂訓を読むと、私たち全員が例外なく、律法の違反者であり、滅ぶべき者であることがわかります。
しかし、私たちには、御霊によって生きる道が示されました。御霊によって生きるとは、御霊に導かれて生きるということです。他の訳や英語の聖書で今日の聖書箇所を読むと、「御霊に導かれるなら、ますます御霊に導かれましょう」ということが書かれています。
御霊に導かれるなら、私たちは、律法の下にはいません。律法から解放される唯一の方法、「死」を通るからです。
パウロは、ガラテヤ2章19節では、「神に生きるために、律法によって律法に死にました。」と書いています。「律法によって律法に死ぬ」とはどういうことだろうか、と思い巡らし、祈る中で次のみことばを思い出しました。
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:4)
これは十字架のみわざについてのみことばです。十字架の目的は、「律法の要求が全うされるため」と書いてあります。律法の要求とは、第一に私たちが神の命令、戒めを守ることです。しかし同時に、「律法を守らない私が、あわれみを受けることなく死刑に処せられること」でもあるのではないでしょうか。
なぜなら、自分はどこまでいっても自己中心であり、不従順だからです。しかし、御霊に従うなら、罪を行い続ける私自身は、すみやかに死に渡されていきます。それが十字架のみわざです。御霊に従い、御霊の力によって自分の肉に死ぬとき、私たちは肉の律法から解放され、心の律法に従うことができるようになります。(ローマ7:22~8:4)
今や、私たちがしなければならない、「行い」らしい行いはありません。ひたすら十字架にすがること、ひたすら聖霊様にすがることだけです。そして、その力すら、主がくださる力です。救いとはなんと驚くべき一方的な恵みでしょうか。
しかし、私たちはすぐに「律法による義」に戻ってしまいます。自分の肉が十字架につけられ、死ぬことは十字架のみわざです。しかし、自分の力で肉を殺そうとしてしまうなら、それは「御霊による義」ではないからです。こう書いてあります。
「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8:6)
私たちが死ぬことを考えるなら、それは肉の思いです。御霊による思いは、いのちと平安であるとはっきりと書いてあります。もちろん、問題をないもののように扱ってはいけません。しかし、問題を見つめたり、自分の力で肉に死のうとすることは肉の思い、律法による義です。
■A:考えてみよう
御霊に導かれないなら、キリストから離れ、恵みから落ちた状態です。
すべてを解決し、すべてを与えてくださったイエス様を、自分には必要のないものとし、必死に自分の力で義に到達しようとしている私を見て、主はどう思われるでしょうか。助け主として与えられた聖霊様を締め出し、自分の力で義に到達しようとしている私を見て、主はどう思われるでしょうか。
今日、十字架に立ち返りたいと願います。
■P:祈り
愛するイエス様、今日あなたのところに帰ります。あなたの十字架を捨てて、自分の力に頼っていたことを赦してください。聖霊様、今日あなたをもう一度歓迎します。あなたを締め出し、肉に従って歩んでいたことを赦してください。
私には、十字架が今日必要です。聖霊様、あなたの助けが今日必要です。へりくだって御前に進み行き、あなたに私を差し出します。今日一日、あなたが私を支配してください。
我が主、我が王であるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
【 けいしろう 】
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