■S:今日の聖書の言葉
ガラテヤ人への手紙3章11節
★ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。
■O:今日のコラム
ガラテヤの人々への警告としてパウロが書いた手紙です。ガラテヤの人々の間に、パウロが語った福音とは違う間違った教えが入ってきました。「救われるためには割礼を受けなくてはならない。」という教えでした。
パウロはもう一度、「割礼などの律法の行いによって私たちが救われるのではなく、信仰によって私たちはアブラハムの子孫とされ、義と認められ、救われるのです。」と念を押しました。
「義人は信仰によって生きる。」神に義と認められる者の生き方とはどうあるべきなのでしょうか?神に義と認められる者はどのような「信仰」によって生きるのでしょうか?
ここでパウロの言っている「信仰」とは、単に「イエス様を私の救い主であると信じます。イエス様を私の主として受け入れます。」という告白だけのものではありません(もちろん、その告白は非常に尊く大切な信仰の告白ではありますが)。
メシヤニック・ジュー(イエス様を救い主と信じているユダヤ人)によって編集されたComplete Jewish Bibileには、この章の「信仰」は「神に信頼すること、また、神に忠実であること」と書かれています。神が私たちに望んでおられる「信仰」、それは私たちが神様に全信頼をおき、完全に信頼し切ることです。また、「信仰」とは、私たちが神に忠実であり、神の愛に誠実に応えて生きることです。
「神に全信頼を置き、神にどこまでも忠実」という信仰の歩みをまっとうされた方がいます。それはイエス様です。イエス様は御父が共にいてくださることに全信頼を置き、また、御父の語ること以外は語らず、ただただ御父の御心だけを行う忠実で真実な歩みをまっとうされました。イエス様は肉体をとられ、どのような生き方が「信仰の歩み」なのかを、私たちに見せてくださいました。
詩篇の103篇には「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」とありますが、それは神様の恩を忘れてはいけない、というような意味ではありません。私たちが今まで主がほどこしてくださった恵みを思い出す時、神様をあらたに信頼し、平安を得ることが出来るのです。
「昨日、私を助けてくださった主は、今日も私を助けてくださる。」「昨日、私を生かしてくださった主は、今日も私を生かしてくださる。」「主が昨日まで私を運んでくださったように、主はこれからも私を運んでくださる。」
神に全信頼を置く時に、恐れは消えます。神に信頼する時に、私たちは水の上を歩くことが出来ます。一瞬の恐れで、沈みそうになるなら、主に助けを叫び求めれば良いのです。イエス様はこの地上を歩まれた時に、いつも探して尋ねられました。「あなたがたの信仰はどこにあるのです?」と。
私たちは今日、不従順と疑いをふるい捨てて、最も信頼に価するお方、決して私たちを捨て置かないと約束してくださった主に、絶大なる信頼を置きましょう!
また、その主の真実さに応えて、私たちも主の愛に誠実に、また忠実に生きていきたいと願います。そうする時に、主が私たちに求めておられる信仰、イエス・キリストの信仰を持つことができると信じます。
■A:考えてみよう
私は今日、信頼するべきお方を信頼しているだろうか?恐れている領域があるだろうか?
私は今日も、真実なお方の愛に誠実に応えているだろうか?
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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