■S:今日の聖書の言葉
列王記第二 18章4節

★彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。

■O:今日のコラム
昨日の聖書の箇所ではアハズ王が出てきました。彼は神の目に良くない行いを重ね、子どもを火の中をくぐらせるというようなこともしました。今日の聖書の箇所ではその息子、ヒゼキヤ王が出てきます。彼は父と打って変わって、主の目にかなう王様でした。(2列王記18:3)

あれほどの悪いことをした父からなぜこのような素晴らしい王が生まれるのでしょうか。私は、ポイントは2節にあると思います。

「彼は二十五歳で王となり、エルサレムで二十九年間、王であった。彼の母の名はアビといい、ゼカリヤの娘であった。」

この母アビヤが箴言31章にかかれている妻のような存在であり、子どものヒゼキヤに、父を尊敬させながら神の目に叶う教育をしたのではないかと思います。

ヒゼキヤ王は南ユダの第13代の王で、彼がどれほど素晴らしかったかが5節に書かれています。

「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。」

なぜヒゼキヤ王はこれほどの評価を受けたのでしょうか。国家を拡大したからでしょうか。国民を愛し、平和を実現したからでしょうか。兵力を高め、激動の時代から国を守ったからでしょうか。 そのどれでもなく、ヒゼキヤ王が主に評価されたのは礼拝を回復したからです。

少し話はそれますが、列王記と歴代誌、名前もややこしいですが、内容も似ていて、混乱しそうになります。列王記は北イスラエル王国と南ユダ王国の王たちの記録がされている書物です。一方、歴代誌はダビデの王位を受け継ぐ南ユダ王国の歴代の王の記録です。ですから、その内容は礼拝・神殿の建設という側面から書かれています。ちなみに、この時代にいた預言者がイザヤですので、歴代誌、列王記、イザヤ書を同時に読み進めるなら、まるで共感福音書のように立体的に神様の御心を知ることができると思います。

話をヒゼキヤ王に戻しましょう。歴代誌の側面からヒゼキヤ王を見るなら、その功績を具体的に見ることができます。

・主の門を開き修理する
ヒゼキヤ王は、王に就任して初めて行ったことは、閉じられていた主の宮の門を開き、修理しました。

「彼はその治世の第一年の第一の月に主の宮の戸を開き、これらを修理した。」(2歴代誌29:3)

私たちも礼拝に対する扉を閉じたままにしていないでしょうか。今からでも遅くありません。最も大切な私たちの内にある主の宮の扉を開き、修理していきましょう。

・いけにえを捧げることの回復
続けて行ったのがいけにえを捧げることです。

「そこで、ヒゼキヤ王は朝早く、この町のつかさたちを集め、主の宮に上って行った。彼らは、王国と聖所とユダのための、罪のためのいけにえとして七頭の雄牛、七頭の雄羊、七頭の子羊、七頭の雄やぎを引いて来たので、彼は祭司であるアロンの子らに命じて、主の祭壇の上でいけにえをささげさせた。 彼らが牛をほふり、祭司たちがその血を受け取って、祭壇に注ぎかけた。ついで雄羊をほふり、その血を祭壇に注ぎかけた。ついで子羊をほふり、その血を祭壇に注ぎかけた。」(2歴代誌29:20~22)

いけにえは悔い改めを象徴します。これは一度行って終わりではなく、日々、もしくは瞬間瞬間必要なものです。罪の性質を気づかせてくださるのは御霊なる主の御業です。聖霊様に罪を教えられたなら、ヒゼキヤ王が朝早くこのことを行ったように、自分の都合を脇においてすぐに悔い改めましょう。そのようにして、主の宮が清められていきます。つまり、私たちの内なる人が清められていくという工程を見ることができます。

その後、ヒゼキヤ王はレビ人に賛美をさせ、礼拝を回復させ、主にひざまずき、伏し拝みます。そして、過越しの祭りを回復していきます。過越しの祭りは神であられるイエス様が人の姿を取り、地上に来てくださったことを指し示す祭りです。

まとめると、ヒゼキヤ王はイエス様との関係を回復したことを私たちに教えてくれています。その結果、今日の聖書箇所に戻りますが、このことが起こります。

「彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」

これが私たちがしなければならないことです。だからといって神社や仏閣に行って偶像を破壊しないでください。逮捕されます。これは私たちの内なる人のことを言っています。

次回のひとつにもそのことが書かれています。

「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」(出エジプト記20:4)

偶像は目に見えるものもそうですが、目に見えない、私たちの心の拠り所としているものが偶像です。心の中にある欲望、願望が目に見えるものになったのが形を持った偶像です。私たちの心の中にはたくさんの偶像がまだあるのではないかと思います。イエス・キリストを信じる私たちは神の宮だとみことばは言っています。(2コリント6:16)

神の宮に偶像が立っていて良いでしょうか?礼拝に来て、会堂が様々な偶像でいっぱいになっていたらみなさんはどう思うでしょうか。私たちの霊の目が開かれ、自分の心を見たらまさにそのような光景になっているのではないでしょうか。

今日の通読箇所でもある列王記第二の17章には南ユダ王国の王、ホセアが出てきます。彼こそが、イエス様を信じていながら、他の物を拠り所としている代表格です。

「主が彼らに、『このようなことをしてはならない』と命じておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。」(2列王記17:12)

神は預言者を通して彼らに何度も警告を与えました。しかし、その警告に従わなかった結果、南ユダはアッシリアによって滅ぼされてしまいます。17章の後半には、サマリヤから祭司が来て、礼拝の仕方を教えますが、人々は自分勝手にふるまい、自分の神を作り、好き勝手にします。

「彼らは主を礼拝しながら、同時に、自分たちがそこから移された諸国の民のならわしに従って、自分たちの神々にも仕えていた。」(2列王記17:33)

これは私たちの姿です。

かつて、イスラエルの民を疫病から救った、モーセが掲げた青銅の蛇の出来事があります。イスラエルの人々は救ってくださった神を見ることなく、その省庁であった青銅の蛇をネフシュタンとしてあがめ、それに香を炊き、偶像化してしまいました。

■A:考えてみよう
私たちはネフシュタンを作っていないだろうか。十字架は私たちの中心です。しかし、十字架のネックレスや、教会の十字架自体に力があるのではありません。それは象徴です。十字架を見るたびに、私たちはそこにイエス様ご自身を見い出さなければなりません。

過去に受けた預言も、油注ぎも、主がなしてくださった素晴らしい御業も、体験した癒やしも、それを自分の物としていつまでもそれを持ち続けるなら、それがネフシュタンとなってしまいます。

奇跡や御業自体を求めるのではなく、それらを与えて下さる主ご自身を礼拝していきましょう。そのために、礼拝の仕方を学びましょう。今、そのための祈りのテキストを作成しています。完成出来るようお祈りください。しかし、それがなくてもみことばから礼拝を学ぶことができます。祈りの家に来て、祈りのスタッフから、また牧師から学ぶことができます。

学んだらそれを実践しましょう。知っているだけでは意味がありません。行いのない信仰は死んだものです。毎日の地道な積み重ねが、ピリピ2章12節にあるように、私たちの救いの達成に努めるということです。

■P:祈り
愛して下さる天のお父さん、今日のみことばをありがとうございます。私はイエス様を愛しています。イエス様を信じています。しかし、私の内にはイエス様以外を頼りとしている部分がまだまだあることを認めます。主よ、赦してください。
あなたにより頼む大切さを頭では理解できているつもりですが、私の実を見ると、そうでないことが明らかです。自分の力ではどうすることもできませんので、聖霊様、このような私を作り変えてください。私の心にイエス様の心を与えてください。
そして、私の内にある高きところを打ちこわし、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、青銅の蛇すら打ち砕くことができますように。
そして、私の内には、ただイエス様だけがご臨在くださいますように。賛美の内にイエス様、あなたを私の主人として、救い主として、王として今一度お迎えします。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しゅん 】

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