■S:今日の聖書の言葉
列王記第二5章13~14節

★そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」

■O:今日のコラム
宗教的な熱心さは、時に信仰による歩みを複雑なものに変えてしまいます。御言葉の奥義や啓示を知ることは重要であり、啓示の戸が開かれる時、私たちの内に命の光が差し込みます。しかし、時に啓示を得ることを追い求めるがあまり、複雑な迷路に迷い込み、最も重要な真理であるイエス・キリストが見えなくなってしまう場合もあるのです。

イエス様は熱心に御言葉の奥義を追い求めていた律法学者やパリサイ人にこのように言っています。

「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネの福音書5:39~40)

アラムの将軍ナアマンも宗教熱心な性質を持った者であり、自身のツァラアトの癒しを求めてエリシャの元に行った時、そこで出された「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。」という答えに怒り、失望します。

彼は「ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルの全ての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないだろうか。」と、エリシャが言った言葉と別の解決方法を求めようとします。ここで最も大きな問題は彼の内にある「プライド」だったのです。

聖書に登場するツァラアトという病は、罪を象徴するものでした。その罪の根にあるのが自己中心、すなわちプライドなのです。なぜ彼のツァラアトが癒される為に、ヨルダン川でなければならなかったのでしょうか。

ヨルダン川は現在のイスラエルにおいては茶色の水が流れ、私も何度か足を踏み入れたことがありますが、藻が生え、とても綺麗な川とは言えない場所です。その中にあえて浸かりたいとは決して思いません。当時のヨルダン川は現在のものよりも水量が多く、水質も幾らかはましだったと思いますが、しかしナアマンがヨルダン川をさげすんでいる所から、当時も他の川々に比べて良い場所とは言えなかったのでしょう。

ヨルダン川はヘルモン山の雪解け水がガリラヤ湖に流れ、そこから死海へと流れ込む川です。それは、高く麗しいヘルモン山から地の最も低い場所の死海へと下る流れなのです。つまりその川に行って身を洗うことは、自分のプライドを捨てて、へりくだることを意味します。

イエス様ご自身が最も高く麗しい天から、自分を無にしてこの地に来られ、地の最も低い所にあるヨルダン川でバプテスマを受け、公生涯を始められたことを心に覚える必要があります。

ナアマンは自分がきよくなる為には「むずかしいこと」をしなければならない。という宗教的なプライドがありました。しかし、しもべの促しを受けて、エリシャの言葉にシンプルに従い、ヨルダン川で身を洗った結果、彼はきよくなりツァラアトから完全に癒やされたのです。

時に私たちもナアマンのように、はあまりにも「むずかしい真理」を求めるが故に、最もシンプルな「イエス・キリストを信じる信仰」を軽視してしまうことがあります。それは深刻な霊的プライドです。

主イエスの十字架の恵みによって私たちは救われ、主イエスの血潮は私たちの罪を完全にきよめる力があります。そして、わたしはキリストと共に十字架に付けられ、今はキリストがわたしの内に生きておられるので、この方により罪と肉の力に打ち勝つことが出来ます。御言葉にシンプルに信仰を置き、御言葉に従う時、その約束に伴った実を結ぶようになるのです。

■A:考えてみよう
以下の御言葉を四度朗読して宣言し、自分の信仰に結びつけましょう。

「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:24)

「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ1:7)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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一つのコメント


  1. 八重樫薫 より:

    いつもマナメールやメッセージに共感させられています。感謝です。
    以前ピリポの意味が馬の愛好家ということで、なぜこんな名前なのか意味がわからないとコメントされていたことについて、自分なりに考え調べたことを書かせてください。詩編の20:7「ある者はいくさ車をほこり、ある者は馬をほこる。」とあります。また、詩篇の147:10では「神は馬の力を喜ばず、・・・」箴言21:31「馬は戦いにためにそなえられる。しかし救いは主による」とあります。ということはもしかするとピリポという名は「兵器マニヤ」という意味があるかもしれません。現代のアメリカですと、ライフル協会の名誉会員でしょうか。車のトランクに拳銃やマシンガンが100丁ほど積んであるイメージかも知れません。ということhもしかすると、熱心党員と近い考えだったかもしれませんね。家にマカバイの剣の偽物が飾ってある感じ・・・真偽のほどはわかりませんが、こんなことを妄想してみました。 さて、教会の前の偶像の宮が拡張されると聞きました。詩編97:7「偶像に仕えるもの、空しい物を誇りとする者は、みな恥を見よう。すべての神々よ主にひれ伏せ。」とういうみ言葉を思い浮かべました。祈りの家で宣言するのに適していると思われたらどうぞ使ってみてください。 感謝します!! 八重樫薫 北海道札幌在住 63歳のクリスチャンです

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