■S:今日の聖書の言葉
列王記第二12章2節
★ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなうことを行った。
■O:今日のコラム
ヨアシュ王はわずか7歳で王となります。そして良い王として過ごし、20節で家来たちに謀反を起こされ非業の死を迎えた。かのようにこの部分だけを見ると思えます。
しかしヨアシュ王の生涯を第二歴代誌24章はもっと詳しく記しています。ヨアシュ王は良い王としてスタートを切ります。そして7歳から養父として教え育ててくれているのは、悪女アタルヤを退け、偶像礼拝を食い止めた祭司エホヤダでした。
祭司エホヤダが生きているうちはヨアシュ王は、良かったのです。しかし祭司エホヤダが死ぬと彼は抑えていタガが外れたかのように悪い性質が浮き彫りになっていきました。
祭司エホヤダは第二歴代誌24章16節で葬られますが、続く17節ではヨアシュ王は自分がふし拝まれることを受け入れてしまいます。つまり自分が神、自分が主になってしまったのです。
もはや誰も彼を止めることができず、預言者たちの戒めを退け始め、ついには祭司エホヤダの子ゼカリヤの預言をうとみ、神殿と祭壇の間で殺してしまいました。謀反はこの出来事のためである、とあります。
主を主とし、神を神とすべきなのに、自分が神になろうとする自己中心は罪の根源と言えるものです。私の中にもこのような肉の性質があることを認めます。私が高ぶって横柄にならないのはただ単に、私に上司や先輩や目上の人がいて、私を高ぶらせないでいてくれているだけなのです。ヨアシュ王にとっての祭司エホヤダのように。
私にそのような弱さがあることを認めます。しかし、私がその弱さを十字架の前に差し出すのであれば、私の弱さに神の恵みは十分なのです。神の力は私の弱さの中に完全にあらわされるのです。だから私は進んで自分の弱さを認めます。
自分を捨て、日々自分の十字架を負ってついていくのが私たちの歩みですが、自分を捨て主を主とする献身は、一度きりのものではなく毎日のものです。それは束縛の歩みではなく解放の歩みです。真理は人を自由にします。
肉の求めるままに生きることこそ束縛なのです。それは滅び、破壊、悲劇をもたらします。しかし主は、私たちを滅びから救い、良いものを与え、救いの達成へと導こうとされているのです。この方を愛し、この方に信頼し、自分を否定するのです。
私を本当に満たすのは私ではないのです。それは、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方だけなのです。
■A:考えてみよう
自分の肉の弱さを認め、十字架に差し出す。今日、新しく献身の歩みをしよう。
■P:祈り
私の肉の弱さを認めます。私は弱いのです。主よ。十字架にあずからせてください。あなたこそ主です。あなたの恵みを褒め称えます。私を恵みの中に生かし、主とともに歩ませて下さる主に感謝を捧げます。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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