■S:今日の聖書の言葉
使徒の働き2章17~21節
★『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』
同33節
★ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
■O:今日のコラム
ペンテコステの今日、主は私たちに聖霊の力を激しく注いでくださいます。
聖霊様の力の働きには、私たちの上に注がれる御霊の力と、私たちの内に働く御霊の力があります。私たちの上に注がれる御霊の力は他の人々のためであり、私たちの内に働く御霊の力は私たち自身の歩みを助け、内なる人を造り変えていくという私たちのためのものですが、どちらも主の御心が成されるための力です。
使徒2章で教会(=キリストの体)に御霊が注がれたように、キリストの御体である教会は主の霊なしには、主の働きは何もすることができません。
また私たち自身も、聖霊様がおられなかったらイエスを主と告白し主を主とすることも、イエス様に従うことも、信仰を持つことも、罪を悟ることも、主の似姿に変えられることも、聖い生活を歩むことも…何もすることができません。
御霊の上からの注ぎには御霊の現れ・御霊の賜物が力としてあらわされますが、私たちの内に働く御霊の力を通して私たちは主の似姿に造り変えられ、御霊の実が結ばれていきます。御霊の上からの注ぎは福音が私たちを通して広がるためのもので、御霊の内に働く力は私たち自身が福音化され、福音に生きるものとするためのものです。
ペンテコステという今日という日に、私たちは教会に注がれる御霊の注ぎを求めると同時に、私たちが主とともに死に主とともに生きるために私たちを助け導き、私たちを主の似姿に造り変える私たちのうちに住まわれる御霊の力を求めていきましょう。
主は御霊を測っては与えられません。御霊に小さいサイズや大きいサイズなどの違いはありません。主は求める者に御霊をお与えになります。また御霊ご自身が私たちの内に住まわれることを選んでくださり、絶えず私たちの内に住んでおられます。御霊を持っているならば、その御霊のすべての力を持っているのです。
では、それなのに御霊の力に満ちているときと満ちていないと思うときの違いはなんでしょうか。その違いは、私たちが御霊に明け渡しているか、いないかです。
今朝、それぞれの礼拝に向かう前に今一度主の御前に進み行き、聖霊様にすべてを明け渡しましょう。そして、今日だけに限らず、私たちのこれからの歩みにおいても日々聖霊様にすべてを明け渡し、主の霊によって歩み続けていくことができますように。
■A:考えてみよう
「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、 主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18~19)
御霊の力を帯びたイエス様が上記の箇所を宣言されたように、私たちが受け取る上からの御霊の注ぎは、私たちのためではなく、キリストの体である私たちが主の御心を行っていくため、人々を解放し、自由にし、人々を主のもとに導くためのものです。
使徒2章で弟子たちの上に御霊が注がれたときに、御霊の力の現れとして、異言の賜物が与えられ、彼らはいろいろな国のことばで神の大きなみわざを語りました。多くの人がそのことを聞いたことによって、ペテロは十一人とともに立ってメッセージを語ることができ、3000人が弟子に加えられました。
すべての御霊の上からの注ぎは、私たちのためでなく、御霊と御力の現れによって福音を宣べ伝え、人々を主のもとに導くためのもの、私たちが主を愛し隣人を愛して、大宣教命令を実行していくためのもの、主が愛しておられる私たちの周りの人々、救われるべき魂のため、主のためのものです!!
私たちのこの国に主の息吹が吹き付け、教会に上からの大いなる聖霊の力が注がれ、日本に主の御心が成され、日本の民が主の弟子へと加えられますように、御霊の注ぎを大胆に求めていきましょう!!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ありさ 】
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