■S:今日の聖書の言葉
エゼキエル書34章11~12節
★まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
同16節
★わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。
■O:今日のコラム
シャローム。今日も真実な羊飼いイエス様がみことばにより私たちを養ってくださることを感謝します。
旧約聖書のあらゆる箇所を通してイエス様を見ることができますが、今日の個所もまさにイエス様がこの地に来られた目的である、天の父の御心を表しています。
「しかし、イエスは答えて、『わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。』と言われた。」(マタイ15:24)
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)
羊飼いとしてのイエス様の重要な任務の一つは、「失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻す」ことでした。この「連れ戻す」の元の言葉には立ち返らせる、悔い改めさせる、の意味が含まれます。
(「悔い改め」と聞くと、またか!とアレルギー反応を示される方がいないことを願いつつ、、)
イエス様の心を代弁する牧師やリーダーが私には与えられていることを感謝していますが、その方々が自分に悔い改めを進めてきたら、罪を指摘され改善を促されたら、私たちはどのように反応するでしょうか。
悲しいことに私自身がそうなのですが、自己中心ゆえ素直にはそれを聞き入れたくないという思いがしばしばやってきます。しかし、そこで終わってしまってはあまりにもったいない。悔い改めに導かれるそのとき、羊飼いなる主が羊を捜すように私を捜しておられ、そして見出してくださるときなのだと発想を転換したいと思います。
以前の滅びに向かう様々な困難な状況から、主に見出された経験をそれぞれにお持ちだと思います。かといって、信仰の歩みはそれで終わり、完成した訳ではないので、今この時に私たちが直面している弱さ、罪の性質、痛みの中にも主の助けを求めて良いのです。むしろイエス様の十字架以外に解決はありません。
私たちは、主にあって造り変えられたい、もっときよく誠実に歩みたい、もっと良い実を結びたいと願うのですが、なかなかその前進を見ることができないとき、私のこの罪の性質はもう救いようがない、悔い改めても悔い改めても同じ罪とどまってしまうこんな私は主も見捨てておられるのではないか、、、と思ってしまうことがあるかもしれません。
しかし、神様はあきらめておられません。ルカ15章の3つのたとえ話にあるように、神様は失われたものに対する熱心さ、あきらめの悪さが半端ではありません。
「牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。」(エゼキエル34:12)
と約束されているように、私たちの中にある暗闇のすべてから一人一人を連れ出し、救い出してくださいます。死に打ち勝った主イエスの救いが及ばない領域は一つもありません。
今週はペンテコステまでの最後の週です。
「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)
と言われた主の約束を日々新たに受け取り、御霊を待ち望みたいと願います。自分で望みえないときにこそ、主だけに望みを置くことが信仰を養う最良の機会であることを感謝します。
■A:考えてみよう
イエス様はあわれみ深いお方です。この方に今日も信頼を置き、以下のみことばをもって祈りましょう。
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:15~16)
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ぺい 】
オンライン献金はこちらから。
大きな額の献金は手数料の少ない口座振り込みをお勧めいたします。