■S:今日の聖書の言葉
マタイによる福音書11章28~30節

★すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

■O:今日のコラム
今日も主は、”すべて”の疲れた人、重荷を負っている人を、主のもとに招いてくださっていること、そして主のもとに行くとき、主が休ませてくださり、主の安息に導き、私たちに日々癒し、解放、回復を与え、愛と平安で満たしてくださることを感謝します。そして、今日もいつも、私たちは主のくびきを負うことができ、主のくびきはここちよく、主の荷は軽いことを感謝します。

皆さんもご存じの通り、くびきとは、牛などの家畜の頸にかけて二頭をつなぎ、一つとして作業させるための横木の道具のことです。私たちの負う主のくびきは、片方はイエス様、片方は私たちで、私たちと主をつなぎ、私たちがいつも主と共に、主と一つとなって歩むためのものです。

主のくびきを負って、主と一つとなるとき、いつも主から学び、私たちのたましいには平安が満ち溢れます。私自身も、いつも主と共に、どんなときも主と一つになって、どんなことも主と共に行いたいと願っています。

しかし、私たちは、主のくびきを負うことができるのに、知らず知らずのうちに、主のくびきを負うのではなく、負わなくていい重荷を自分から負ってしまい、必要のない重荷を感じてしまうときがあるかもしれません。知らず知らずのうちに、主のためと思いながらも、主と共に負うのではなく、自分一人で重荷を負おうとしてしまうときがあるかもしれません。

また、この世のいろいろなことに目が向いてしまい、心に疲れを感じてしまうことがあるかもしれません。時には、主の約束を待ち望むこと、あきらめずに祈り続けること、あきらめずに行い続けること、愛し続けること、結果が見えなくても信じ従い続けること…に心が疲れ果ててしまうことがあるかもしれません。

しかし、私たちが主のくびきを負えていない時でも、疲れや重荷を感じてしまう時でも、主は私たちを責めるのではなく、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたを休ませてあげます。」といつも主のもとに招いてくださっていることを感謝します。

私たちはいつも主のくびきを負えるのに、私たちが主のくびきを置いて、主と共に主と一つになって行うのではなく、自分一人で考え行動してしまうような時でも、主はいつも私たちと共におられ、片方にご自分の首をかけてくびきを負い、私たちがもう片方に自分の首を通して主のくびきを負って主と一つになることを選び取るのを、いつもそばで待ってくださっています。

主は私たちを導きたいと願われ、いつも私たちに目を注ぎ、私たちとともにいてくださっています。私たちが主を見つめ続けられず、疲れを感じてしまうときも、主はいつも私たちを見つめてくださっています。自分で重荷、負担や思い煩いをかかえようとしてしまう時でも、私たちがそれらを手放し、明け渡して、主のもとに行くのをいつもそばで待っていてくださいます。

私たちが何かを主と共に行えないときでも、主はいつも私たちと共にいて、私たちが主のくびきを負って、主とともに行うことを選び取ることを、主はいつも待っておられます。

■A:考えてみよう
今朝も、毎朝、主はすでにくびきの片方にご自分の頸を通し、主と一つになって今日も歩みたいと私たちが主のくびきを選び取るのを待ってくださっていることを覚えましょう。

私たちがすべきことは、主のくびきを負うことを主の御前で日々選び取り宣言することです。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ありさ 】

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