■S:今日の聖書の言葉
マタイによる福音書5章3節

★心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

■O:今日のコラム
心の貧しい者とは、心が貧乏性で「誰にも何にも分けてやるもんか!」という雰囲気をまとった人のことではありません。ここで「心」と訳されている語は(ギ)プニューマで、それは霊のことです。霊が飢え渇いている者のことであり、御霊に飢え渇いている者のことです。主は「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)と語られました。

ところで、私たちはイエス様を見ることが必要です。信仰の歩みとは、信仰の創始者であり完成者であるイエス様を見つめる歩みです。信仰の目を覚ましている者は、目を覚まして何を見るのでしょう?それはイエス様をです。信仰の目が開いていてこそ、地上の歩みで喜ばしいことがあれば主を賛美し、悲しむべきことがあれば主にとりなし、何でも申し上げ、神の友として歩むことができます。

しかし、ここに一つの誘惑がよく起こります。それは自分の満たしをこの世に求めるか?主に求めるか?という選択のことです。もちろん私たちには、お金も食べ物も着る物も必要です。しかしそれらをいくら追い求めても、主を見ることは難しいでしょう。それらを得る時にもその背後で支え、与えてくださった主を見ることができれば、それらを通して賛美と感謝が起こります。そして実は、主を求めるのであれば、それらの必要な物は必ず与えられます。

主を求めることを優先しましょう。朝起きて、まず主を求めて祈り始めましょう!まず自分の必要から求め始めると優先順位が崩れます。そして世の物を求めることはどんどん歯止めが効かなくなってしまいやすいのです。そうして信仰の目は閉じていき、信仰の耳は閉じていきます。まず御霊を歓迎し、神の霊を歓迎して祈り始めるとき私たちの目は、覆いが取りのけられ、イエス様が、御言葉が、はっきり見えるようになっていきます。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリ3:16~18)

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、」(エペソ1:17~18)

イエス様を見つめる歩みとは、イエス様が自分の心からの喜びとなっている歩みです。聖書では、目とは願望をあらわします。イエス様を見つめる信仰の目が開かれてこそ、私たちは神の友としての歩み、真理のうちを歩む歩み、御心を行う歩みができるのです。真理のうちを歩むとは、イヤイヤながらでも強いられてでもなく、喜んで捧げ、喜んで仕える自由の中に生きることです。

■A:考えてみよう
心の飢え渇きをもって御霊を叫び求める時間を持ちましょう!(もちろん環境に配慮して)
御霊によらなければ主を礼拝することはできないのです。私たちの地上の歩みの全てが礼拝の歩みとなりますように。

■P:祈り
主よ。あなたは貧しい者の祈りを聞かれる方、心の貧しい者は幸いである、とおっしゃる方。私が今日、神の霊であるあなたご自身に飢え渇いて求め祈ることができるようにしてください。目を覚まして祈っていなさいと仰せられる方。私の目を開いてください。御霊の刀で耳と心に割礼をお与えください。あなたを見つめて、あなたの友として喜びの中を歩めることを感謝いたします。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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