■S:今日の聖書の言葉
使徒の働き11章23~26節

★彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。バルナバはサウロを探しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる1年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

■O:今日のコラム
神の恵みの中で成長し、心を堅く保って、常に主にとどまっていたアンテオケの弟子たちは、はじめてキリスト者と呼ばれました。キリスト者とはギリシャ語ではクリスティアノス、英語ではクリスチャンです。私たちは普段、クリスチャンという単語を頻繁に使用していると思います。

今ではクリスチャンとはイエス様を信じるすべての人のことを指し、私たちも「クリスチャンです」と言って自分のことを人々に表したりしていますが、当時のクリスチャン(キリスト者)の意味は今と少し違いました。

「キリスト者(クリスチャン)」とはこの世から選ばれ救われ、キリストに属する者となっただけでなく、キリストと一つなるためにこの世の価値観、汚れ、罪、考え…etcから離れ、キリストに献身し、キリストにすべてを依存し、キリストに無条件で従うキリストのしもべ、弟子たちのことを指す呼び名でした。

イエス様と一つになることを心から願い、いつも主と主のみことばにとどまり、絶えず主だけを求め、主に従う者、日々主に献身し、主を愛し主とともに歩む者が、クリスチャンです。当時のクリスチャンの意味を思うとき、「私はクリスチャンです」ということの意味の大きさが変わっていきます。

私たちは、本当にいつも、どんな時もクリスチャンでしょうか?もちろん、私たちは皆、いつでもキリスト者として歩み、いつも主に従い、主を愛し、主と一つとなることを心から願っていると思います。

改めて、キリスト者として日々主に献身し歩んでいきたいと思わされますが、アンテオケのクリスチャンはレベルの高いことに、他の人から、イエス様を信じていない知らない人々からクリスチャンと言われました。

はじめはキリストの弟子たちを侮辱してキリスト者と呼んでいたのではないかという文献も多くありますが、それでもイエス様を知らない人たちにまで、イエス様に従う者だというふうに、彼らの歩みを通して人々がイエス様を見ることができたのは素晴らしいことだと思います。

クリスチャンと呼ばれた彼らは、どれだけ日々の生活の中で、証人として歩んでいたのだろうか?どれだけ日々の歩みの中で、彼らを通してキリストのかおりが溢れていたのだろうか?そして、果たして私はどうだろうか?イエス様を信じない人にまでキリスト者と呼ばれるほど、証人となって日々歩めているだろうか?

愛するイエス様のことを伝えるため、人々に福音を伝え、人々を神様のもとに導くため、福音を口で語ることも喜びですが、それ以上に生き方で主をあらわす者になりたい、日々の歩みを通してイエス様をあらわす者になりたい、イエス様を知らない人々がイエス様を見るようになるほどに主の証人として歩みたいと心から願います。

しかし、自分の状態、弱さを見るとき、素晴らしい主をあらわすのにはとてもじゃないけどまだまだ造り変えられなければならないことが沢山ありすぎて…もっと私が衰え主が盛んにならないといけなすぎて…という思いもあります。

しかし、今日も主は私たちを責めるのではなく、励ましてくださっていることを感謝します!

主の恵みはいつも私たちに十分で、主の力は弱さのうちに完全に現れることを感謝します!アンテオケ教会の人々に働かれた同じ主が私たちのうちにおられます!同じ御霊なる主の働きが私たちを主と同じかたちに姿を造り変えてくださいます!計り知れないほど偉大な神のすぐれた力が私たちのうちに働いていることを感謝します!

バルナバを通してアンテオケの聖徒たちを主が励ましたように、主は私たちにも「心を堅く保ってわたしにとどまりなさい」と励まし、恵みを今日も注いでくださっています。

「彼は到着して、神が恵みを彼らに与えておられるのを見て、喜びに満たされた。そして、彼は、すべての人々が不動な、堅固な決意をもって主によりすがり、心を主にささげ続けるように、絶えず忠告し、激励し、勇気づけた。」(詳訳聖書、使徒11:23)

詳訳聖書の訳を見ると、「心を主にささげ続けるように」励ましたと書かれています。キリストと一つなるためにこの世の汚れや罪から離れ、キリストに献身し、キリストにすべてを依存し、キリストに無条件で従うキリスト者として歩むために必要なことは、「心を主にささげ続けること」です。

十字架にかかられたイエス様のわき腹を兵士のひとりが槍で突き刺したとき、イエス様の私たちに対する愛のゆえに心臓が爆発し血と水があふれ出た、それほどまでにイエス様は心をすべてささげてくださったことを覚え、私たちも主に絶えず心をささげ続けようではありませんか。

何をするにも、どこにいても、主に心をささげ続け、キリスト者として歩んでいこうではありませんか。

■A:考えてみよう
キリスト者として歩む者として、今一度、自分の心を主にささげましょう。そして、「キリスト者と呼ばれるようになった」というみことばが自分にも成就されていくことも、信仰をもって受け取りましょう。

自分や人が自分のことをどう思ったとしても、今どういう状況だとしても、私たちのうちにおられる主の素晴らしさは変わりません。

私たちはキリスト者として、イエス・キリストに従うように選ばれました!(1ペテロ1:2)もはや私たちが生きるのではなく、キリストが私たちのうちに生きておられます!(ガラテヤ2:20)私たちはキリストとともに生かされている者たちです!(エペソ2:5、コロサイ2:13)

自分がどういうものであるかをみことばの真理から握り、自分の信仰ではなくキリストの信仰に頼り、歩むことができますように。そして、信仰の創始者であり、完成者であるイエス様から目を離さず、主だけを見つめ続けることができますように。

それぞれ任されたところ、主によって置かれているところで、神が私たちを導いて、キリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださる(2コリ2:14)ことを感謝して宣言し、心をささげて祈りましょう。

主の恵み、主の力によって、キリスト者として歩むことができますように!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ありさ 】

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