■S:今日の聖書の言葉
ペテロの手紙第一5章2~3節

★あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。

■O:今日のコラム
この御言葉は教会の長老たちに対して語られたものであり、「神の羊の群れを牧しなさい」とは、直接的には牧師先生や教会リーダーに対する勧めであります。

ですが、たとえ私が一信徒であったとしても、今日、初めて礼拝に来られた方が私の隣に座ったとしたら、どうでしょう。その方にとって私は「模範を示すべき存在」ではないでしょうか?その意味で、この御言葉もすべてのクリスチャン(すなわち私)に対して語られていると言えるのではないでしょうか。

さて、興味深いことは、群れの「模範となる」の対極にあるのが「支配する」であるということです。

「支配する」とは、一方が指示・命令し、もう一方は、それに従うという関係です。受け身であり、従属的です。これに対して「模範を示す」とは、模範者に対する信頼と尊敬の上に成り立つ関係であり、自ら進んで模範者に倣って生きようとする生き方であります。

教会はもとより、職場、学校、家庭、あらゆる共同体において、この二つのリーダーシップのいずれであるかは、天と地ほどの違いを生みます。上司が部下を、先輩が後輩を、夫が妻を、親が子供を、支配するのか、それとも模範を示すのか…?私たちは今朝この御言葉によって、自ら照らされたいと願います。

模範者として生きることは、生易しいことではありません。礼拝で語られるメッセージも、群れの模範となろうと思えば、聞き流すことはできません。模範を示すことを放棄してしまえば、安易な生き方も、できるかもしれませんが…。果たしてこれは「人を意識した信仰」「人に見せる信仰」なのでしょうか?

パリサイ人、律法学者たちは、確かにそうでした。彼らは人からの称賛を得たがりました。そのために自らの信仰を自慢しました。しかし、模範を示す生き方とは、信仰を自慢する生き方とは異なります。人の目を意識した生き方では、真の模範を示すことはできないからです。

パウロは言いました。

「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」(1コリント9:27)

パウロは群れの模範として生きようと努めたのです。

「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」(1コリント11:1)

「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(1ペテロ2:21)

イエス様ご自身がまず模範を示されました。十字架の死に至るまで、父なる神様に従うことによってです。

私たちは主を愛し、主の御足の跡に従うことにより、後に続く方々の模範とされるのです。

■A:考えてみよう
私は誰を模範としているだろうか?
私は群れの模範となっているだろうか?

■P:祈り
主の恵みにより、御霊の助けによって、私を主イエス様に倣う者とならせて下さい。そして私を群れの模範とならせて下さい。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 よしかず 】

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