■S:今日の聖書の言葉
エレミヤ書4章1節
★…わたしのところに帰ってこい。…
■O:今日のコラム
旅行や出張で長期的に家を外すときに、いつも思うことは「帰ってくる場所がある」ということです。片道切符ではなく、復路のチケットを持って出発することができること、それはとても幸せなことであるといつも思います。
聖書には、原罪により行き場を失った人間が帰るべき場所に戻ってゆく、そのような壮大なストーリーが描かれています。その大きなテーマを背景に、神のもとに戻ることを決めた個々人のストーリーがちりばめられています。
帰る場所があること、それが私たち人間にとってどれだけ嬉しく、心強いものでしょうか。
放蕩息子のストーリーは、その代表的な例です。遠い国に憧れ、そこに今よりもっと何か良いものがあると思い父のもとを離れた弟は、紆余曲折を経て父のもとに戻り、そして迎え入れられます。
一方で、兄は父のもとにずっといましたが、父がいる場所は彼にとってのホームではなかったことが弟の帰還時の様子から伺われます。弟だけではなく、兄までもが実はホームレスであり放蕩息子だったということを発見するとき、彼らは一体どこから放蕩していたのかと問わずにはいられせん。
しかし、この放蕩息子以上に孤独を味わった方が聖書には書かれていると思います。それは、イエスキリストご自身ではないでしょうか。誰よりも神のそばにいた方が、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)」と叫ばれるほどに深い霊的な孤独を味われました。
それは何ためであったと考えるとき、ただホームを失ったことすら気づかずに、今もなお放蕩を続けている人間が永遠のホームレスとならず、真の「帰る場所」をもう一度見つけるため、つまり私たち一人ひとりが「帰る場所」を取り戻すためだったのではないでしょうか。
■A:考えてみよう
私の祖母は、富山県砺波市で生まれ育ち、今でもその故郷への思いと情熱は、聞けば聞くほど切なくなるものがあります。祖母の里帰りにお供したことも数回ありますが、そこには祖母が住んでいた家がまだ存在し、変わらない風景があります。
しかし、もうそこには祖母が子供のころに味わったその安心や幸せはなく、祖母にとっての「帰る場所」ではないことに、帰省から帰る道での祖母の顔を見ていると本人も薄々気づきながらも認められない気持ちがあるのではと思わされます。
「帰る場所」とは何かということを考えるとき、それは物理的な居場所ではなく、人間が本質的に切に求めてやまない、霊的な居場所のことを指すのではと感じます。
私たちはその居場所を獲得するために、必死で探し求め、時には人や物、仕事やお金にそれを求め懸命に動きますが、結果的にはその「帰る場所」は私たちが離れ、逃げて、避け続けた神の御許にしかないという真実に出会うこととなるような気がします。
たとえ離れることがあっても、反逆することがあっても、迷うことがあっても、私には帰る場所があることを心から感謝したいと思います。
願わくは、私の人生が「わたしのところに戻ってこい」と呼んでおられる神のその静かであたたかな声に自分自身耳を傾け、またその声を世界に届ける人生でありますように。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 れな 】
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