■S:今日の聖書の言葉
サムエル記第二14章25節

★さて、イスラエルのどこにも、アブシャロムほど、その美しさをほめはやされた者はいなかった。足の裏から頭の頂まで彼には非の打ちどころがなかった。

■O:今日のコラム
上記の一節を読むだけでもアブシャロムがどれ程に素晴らしい人物であったかがうかがい知れます。イスラエルのどこにも彼ほどに美しい者は無く、足の裏から頭の頂きまで彼には非の打ちどころがありませんでした。

この世の中で多くの人々が美しさや能力、名声や称賛を得られるなら幸せになれると考えます。しかし、アブシャロムはその全てのものを得ても決して幸せではありませんでした。ただ一つの愛、父からの愛を受けることが出来なかったからです。

美しさを誇り、名声を追求する心をサタンは喜びます。なぜならサタン自身がかつて、天において賛美長を務めていた時、自らの美しさに酔いしれ、神が受けるべき称賛を自分が受けようとして、その高ぶり故に天から追放されたからです。彼はかつて「全きものの典型、知恵に満ち、美の極み」(エゼキエル28:12参照)と呼ばれる御使いでした。

サタンにはこの世の美しさと能力はあっても、父なる神の愛はありません。それ故に彼が人の心を支配する時、人はとても孤独になります。世の中で繁栄し、有名で、成功している人々が同時に、深い孤独と満たされない思いを抱えているのもその為です。

ここから書くことの判断は皆様にお委ねしますが、時々、私は人々に「イエス様はこの地を歩まれた時、美しく、ハンサムだったと思いますか。」と聞くことがあります。多くの人々が「もちろんハンサムだった。」と答えます。絵画で描かれているイエス様はとても美しく描かれ、また映画でイエス様の役をする俳優はとてもハンサムなのでそのようなイメージを持つのも当然です。しかし、聖書には、

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」(イザヤ書53:2b)

と記されています。また福音書では多くの人びとがイエス様に対して「本当にこの者がメシヤなのか。」と疑問を抱きました。もし、外見的な輝きと美しさを持っていたなら、人々は見た目で「この方こそメシヤだ。」と認めたことでしょう。しかし主は、

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル記16:7b)

と言われます。変貌山でイエス様の内なる姿が解き放たれた時、それは大変美しいものでした。また黙示録に表現されているイエス様の姿はこの世の言葉で言い表せない程に栄光に満ちた姿です。イエス様はこの地上で歩まれた時、栄光に輝く美しさを、見ばえのしない容姿の中に秘めておられたのです。

もう間もなく世に出て来る反キリストは、見た目は大変美しく、立派な人物で、能力もあり、誰もが「この者こそ世界を救う真のリーダーだ。」と認めるようになるでしょう。また教会に侵入して来る反キリスト的な教えは、誰の耳にもいかにも好ましく、麗しい教えのように聞こえるでしょう。しかし、私たちは見える所に惑わされないようにしなければなりません。

キリストに従う十字架の道は、狭く、愚かで、見ばえのしないものですが、その道の先に私たちは真の美しさを持った、栄光に輝く、花婿キリストと顔と顔を合わせて出会うようになるのです。そして、キリストの十字架の道は私たちに真の充足をもたらす父なる神の愛へと導くものです。

この地上での歩みを一日一日、信仰の創始者であり完成者である主イエスから目を離さないで歩んでまいりましょう。

■A:考えてみよう
以下の賛美を自分の信仰告白として歌いましょう。

キリストには代えられません 世の宝もまた富も このお方が私に 代わって死んだ故です
キリストには代えられません 有名な人になることも 人の褒める言葉も この心をひきません
キリストには代えられません いかに美しいものも このお方で心の 満たされてある今は
世の楽しみよ去れ 世の誉れよ行け キリストには代えられません 世の何ものも

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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