■S:今日の聖書の言葉
サムエル記第二11章27節

★喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。

■O:今日のコラム
今日の箇所は、神の御心にかなう者の代表のような、神のしもべダビデが大きく神の御心をそこなった箇所です。

ダビデの生涯の中で、彼がこのウリヤのこと以外、まったく失敗をしなかったかというと、そうではありません。ウリヤのこと以外の大きな失敗の中には、人口調査をすることによって、大きく神の御心をそこなった出来事もあります。その時には、ダビデの失敗のせいで神罰がくだり、なんと7万人もの民が死にます。

「すると、主は、その朝から、定められた時まで、イスラエルに疫病を下されたので、ダンからベエル・シェバに至るまで、民のうち七万人が死んだ。」(2サムエル24:15)

同じ、「意図的に人を死に追いやった罪」で、ウリヤの場合は1人、民の場合は7万人、と考えると、この人口調査の失敗も非常に大きなものであると感じます。

けれども、みことばには次のように記されています。

「それはダビデが主の目にかなうことを行い、ヘテ人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことにそむかなかったからである。」(1列王記15:5)

みことばには、ウリヤのことだけが、ダビデの罪として記されています。

この2つの出来事の違いはなんでしょう。もちろん、あげていくと違いはいくつかあるでしょう。けれども、その中でも1番大きな違いとはダビデが「悔い改めたタイミング」です。

『イエス様の血潮を宣言する祈り』の中で、本当に大好きな宣言があります。それは「心」に対するもので、「私の心は無割礼の堅く閉じた心ではなく、包皮を切り捨てた心、また私が罪を犯したらすぐ痛むような、繊細な心となります。」という宣言です。

この「罪を犯したらすぐに痛むような心」とは、ダビデの心を模範としています。

「こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。」(1サムエル24:5)

ダビデがなぜ神の御心にかなう者だったのでしょうか?それは、彼が完璧な者だったからではなく、彼が罪に対してすぐに痛む心を持っていたからでした。

ダビデは完全無欠の超人ではなく、確かに失敗もする普通の人でした。けれども、失敗するたびに、神の御前に悔い改め、御心に立ち返る者でした。この、7万人を死に追いやってしまった時もそうでした。

「ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。『私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。』」(2サムエル24:10)

けれども、このウリヤの時はどうだったでしょうか?バテ・シェバがダビデの子を身ごもり、出産するまでがだいたい10ヶ月としたら、ダビデがこの罪を悔い改めるのに、実に10ヶ月近くも時間があったということです。彼には悔い改めるのに、10ヶ月間も機会がありましたが、預言者ナタンに指摘されるまで、そのことは、なかったことのように隠され、また放置されていたのです。

ダビデの「罪を犯したらすぐに痛む心」はどこへ行ってしまったのでしょうか?なぜ、彼はその素晴らしい心を失ってしまっていたのでしょうか?

その原因は、「高ぶり」です。11章の時、ダビデは勝利に次ぐ勝利、王として地位も領地も確立されていました。

「年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。」(2サムエル11:1)

いつも、軍と共に戦いに出ていたダビデでしたが、軍も強くなり、彼はもはや自ら戦いに出る必要もなく、エルサレムにとどまり、軍に指示を出すだけで良い程に、地位も権力も確立されていたのでした。

いかなる高ぶりであっても、高ぶりは私たちから悔い改めの機会を奪っていきます。「自分は大分、きよめられた。」「自分には、大した罪はない。信仰深く、わりと立派。」「自分は悪くない。相手が悪い。」「自分は人格者で、大人で、変わらなければならないところはない。」そのような傲慢さは私たちの心を、罪に対して鈍感にさせます。

教会で講壇から「悔い改め」について、語られていることは大きな恵みです。講壇から「日々、悔い改めましょう」とチャレンジされることは、幸いなことであると信じます。なぜなら罪を悔い改めることができないのは、とても深刻なことだからです。その深刻さを、今日の箇所がしっかりと教えてくれています。

主の御前に立った時に、永遠のさばきを受けることを考えたら、この地上にいる間に、みことばによってさばかれ、砕かれ、悔い改めに導かれることは、ずっと幸いなことであります。

今日という日に「悔い改めるべきは私です。」というへりくだりをもって、主の義の訓練と懲らしめによって、御霊により、造り変えられていくことを良しとしましょう。それは、永遠のいのちへとつながる喜びの道のりであることを祝福します!

「あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。そうすれば、私は全き者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。」(詩篇19:13)

■A:考えてみよう
自分の内に隠している罪はないだろうか?誰にも指摘されたくない罪を、放置していないだろうか?「変わるべきは自分ではなく、相手である」と思っていないだろうか?

「変わるべきは自分だ」という気づきを与えられたなら、そのとたんに見ていた景色が、変わるでしょう。

■P:祈り
主よ、あなたに喜ばれる、きよい、しみもしわもない花嫁となりたいと願います。あなたの御前に立って、初めて自分の汚れに気づくことがないように、今日、変わるべき自分を認め、へりくだることができますように。私を傲慢の罪、高ぶりから守ってください。罪を犯したらすぐに痛む心の持ち主とさせてください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

カテゴリー: マナメール

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