■S:今日の聖書の言葉
サムエル記第二1章14節
★ダビデは言った。「主に油注がれた方に、手を下して殺すのを恐れなかったとは、どうしたことか。」
■O:今日のコラム
ダビデの生涯の中で、何度も殺されそうになりながら、自分を殺そうとしていたサウル王に対して示した敬意は最後まで尽きることがありませんでした。
サウルとヨナタンが亡くなってから新しい時代が始まろうとしている時にも、ダビデはサウルとヨナタンの死を惜しんで哀歌を作っています。普通なら自分を殺そうとしていた相手がいなくなるなら、安心感と喜びがやって来るのではないでしょうか。
私たちの生活や人生の中においても、嫌ってくる相手や、害を与えてくる相手が自分の前から去るなら、喜ぶのではないでしょうか。しかしダビデはサウル王とヨナタンが死んだ時でさえも、「主に油注がれた方に、手を下して、殺すのを恐れななかったとは、どうしたことか。」と言って、手柄欲しさに殺したと嘘をついた相手に不思議なことをします。そのアマレクの若い者を殺してしまったのです。
ここでダビデがいつも見ていたものは、主ご自身であることがわかります。油注がれた者は、主が油を注いだので権威があるのです。主の油が注がれているからです。ダビデは正しく主を恐れていたので、サウルを油注がれた王として正しく敬いました。
私たちにとって、油注がれた方とは誰でしょうか。もちろん、牧師先生や、働き人、たくさんの方が油注がれて働いています。しかしながら、私たちの最高指導者イエス様ご自身こそ、「油注がれた方」なのです。
ここでもう一つ興味深いことは、サウル王を殺したと言った若者が、寄留のアマレク人であるということです。私たちの内に住むアマレク人、つまり御言葉を知らない者が住んでいる時に、御言葉を知らないが故に、ダビデが言った「油注がれた者に、手を下してはならない。」という教えを破り、御言葉に反逆してしまう、ということが起こり得るのです。
このアマレクの若者は自分の欲には従いましたがみことばには従いませんでした。みことばを知らなかったので従えなかったのです。それ故に、彼はその場で殺されてしまいました。
油注がれた王、イエス様が治めてくださる時、平安と喜びが私たちの内なるエルサレムに広がりますが、私たちの内に住むアマレク人が御言葉を知らない故に王なるイエス様を締め出す時、私たちの内側も死んでしまうことがわかります。
アマレクは高ぶりという性質があります。私たちは、自分の内側からアマレクを打ち滅ぼし、まことの油注がれた王イエス様に内側を治めていただくと同時に、ダビデが主の御言葉を敬って生きたように、内側に御言葉を蓄えていく必要があります。御言葉を知らないが故に神に敵対して生きてはなりません。自分勝手な信仰では神に近づくことなどできないのです。
御言葉なるイエスキリスト、イエスキリストの信仰が私の内に形造られますように。
■A:考えてみよう
イエス様の信仰が私の中に生きているのか。
自分の信仰、自分の考えから生み出した信仰の中に生きていないか。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あはごん 】
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アマレク人はサウルを殺したと書かれていません。
第1サムエル31:4-6
一部修正させていただきました。皆様により良い記事をお届けする事を願い、改善してまいります。ご指摘、心より感謝いたします。