■S:今日の聖書の言葉
テサロニケ人への手紙第一4章16節~18節
★主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
■O:今日のコラム
今は受験のシーズンで、日本の学生たちが頑張っています。試験の日に向けて、おそらく、自分のやりたいことを後回しにして、やらなければならないことに励み頑張っていることでしょう。目標に向かって努力する者には、その目標が達成されるまで苦難があります。マラソンでもゴールするまでは、苦しくても走り続けなければなりません。
受験生は、試験の日があるからこそ、それに向けて頑張ることが出来ます。マラソン走者も、ゴールがあると知っているからこそ、辛くとも走り続けることができます。私たちキリスト者も、自分たちのゴールの存在を知り、その希望を胸に抱き続けなければ、走るべき工程を最後まで走り続け、自分の信仰の歩みをまっとうすることは出来ないでしょう。
そのことを知っているパウロはテサロニケ人の教会に向けて今日の箇所のように、励ましと警告を与えました。
私たちが知っておくべきゴール、胸に抱くべき希望とはなんでしょうか?それは花婿が迎えに来られ、花嫁が一挙に花婿のもとへと引き上げられる日のことです。花婿なるイエス様も、そのことを語っておられます。
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:2,3)
花婿はいつ来られるのでしょうか?花嫁なる教会が、しみもしわもないほどに、きよめられ、キリストの満ち満ちた身丈に成熟したら来られます。
「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。」(2テモテ3:11,12a)
この聖句は、花嫁がきよい敬虔な生き方をするようになることが、花婿が来られる日、つまり再臨を早めると語っています。花婿は、どれほど首を長くしてその日を待ち望んでおられるでしょうか。花嫁なる教会が、つまり私たち一人ひとりが整えられて、その用意が出来ることを待っておられます。
花婿が迎えに来られるのは「花嫁」であって、「子ども」ではありません。私たちが「神の子」としてのアイデンティティーに立つのは非常に重要なことです。けれども、「神の子」とは、幼稚であることとは違います。私たちの内なる人は成長していかなければなりません。キリストの姿へと変えられなければなりません。花嫁が未成年のままでは、花婿は来られないのです。
「あの人が気に入らない…。この人のせいで…。あれが欲しい。これが必要。私はああしたい。私はこうじゃないと嫌だ。」これは、成熟した花嫁の声でしょうか?
私たちは、この地上において苦難、試練があります。手放さなければならない怒りや赦せない思い、明け渡さなければならない自己義、変わらなければならない自分を見る時、それが簡単には出来ない葛藤を覚えます。苦しいです。私たちを、子として扱ってくださるゆえに、御父の愛の懲らしめがある時、痛みを通ります。実りを見ることが出来ず、諦めてしまいたくなることがあるかもしれません。
パウロは、地上の苦難の中にいる時も、「キリストの再臨と携挙」という希望を思い、互いに慰め合いなさいと語りました。
「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」(1テサロニケ4:18)
この「慰め合いなさい」の原語の意味は、「慰める」という意味の他に「挨拶する。忠告する。警告する。思い起こさせる。奨励する。」という意味があります。
初代教会の人々は「マラナ・タ」と互いに挨拶を交わしました。これは「主は来られる。主の日は近い。」という意味です。迫害やあらゆる苦難の中で初代教会の人々は「主は来られる。」と挨拶することによって、気落ちする者には励ましを与え、また、キリストの再臨のことなど忘れてしまってこの世の事柄に心が奪われたり、目に見えるものに翻弄されている者には忠告を与えました。
私たちも、「主は来られる」という挨拶をもって、ともに励まし合い、教え戒めあって、花婿の迎えに来られる日に備えたいと願います!
■A:考えてみよう
今日、主が来られるとしたら、今、両手に握っているものは、必要なものだろうか、不必要なものだろうか?
それは、握り続けるべきものだろうか?それとも、すぐにでも手放しておいた方がいいものだろうか?
「花婿が花嫁を迎えに来る」と聞くと、ディズニー映画のように、王子様が姫を白馬で優雅に迎えに来るイメージがありますが、今日の箇所にある「雲の中に一挙に引き上げられ」の「一挙」とは、原語では「ひったくる。奪い取る。さらっていく。」という意味です。優雅な時間はありません。瞬きの瞬間であることが分かります。
今日、取り組むべきことに、今日、取り組むことができますように。
■P:祈り
愛する花婿なる主よ。あなたが私の成長を願っていてくださることを感謝します。私がきよめられることが、あなたの願いであることを感謝します。あなたが花嫁の完成を待っておられ、また、私の内に、キリストのご人格が生きるのを待っておられることを覚えます。
今日、変わるべき私を教えてください。今日、手放すべきものを手放し、明け渡すべきものを、すべて明け渡すことが出来るように、力を与えて下さい。主が来られることに希望をおき、また、花嫁がひったくられるような勢いで、一瞬にして引き上げられることに希望をおきます。私がそれを忘れることがないように、今日、自分自身で告白し、自分自身に忠告します!
主は来られる!アーメン。主イエスよ、来て下さい!
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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