■S:今日の聖書の言葉
詩篇130篇3節

★主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。

■O:今日のコラム
「神様、今日もみんなが主の前に立つことができますように。」
教会のプレスクールでいつもこのように祈る小さな男の子がいます。幼子の祈りは本当に純粋であり、また同時に、敵の門を勝ち取るほどの大きな力があります。私は彼の祈りを聞く度に、果たして自分はどうなのだろうか?といつも心探られます。

私たちは時として、「罪を持ったままでは、主の前に立つことができない」「自分が良い人、何か立派か人になってからでないといけない」そのように思ってしまうことがあります。しかし、私たちがどのような状態であるかは全く関係ありません。イエス様の十字架の血潮と罪の赦しにより、私たちは恐れなく神の御前に出ることが出来るのです。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15~16)

十字架による解決を得たなら、もう自分の罪や失敗を見る必要はありません。なぜなら主がそのようには見てはおられないからです。では、主は、私たちをどのように見ておられるのでしょうか?

私は毎年、仮庵の祭りの時期に家族でイスラエルに行く恵みに預かっています。毎回必ず行く場所の一つに、「嘆きの壁」があります。多くのユダヤ人が、聖なる都の滅亡と神殿の荒廃を嘆き、その回復と復興のために、壁が黒ずむほどに額を押し当てて毎日祈りをささげています。

日本人チームも毎年その場所でイスラエルの救いと回復を祈ります。今回、十分な時間が与えられたので、その場所に置いてあった椅子に座って、それぞれ主との個人的な祈りの時間をもちました。私は祈りながら「内なるエルサレムの回復」について思い巡らし、自分の心を点検していました。

いつもと変わらない光景を目の前にし、「私の城壁も目の前にあるこの城壁のように崩れたままなのではないか。いまだ同じような弱さがあり、罪の性質が相変わらずある。一年前と全然変わっていないのではないか…」目の前の城壁を見ながら、そのように思い、心が落ち込みかけていました。そのときに通読箇所であったイザヤ書を開くと、この箇所が目に留まりました。

「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。…あなたは必ず、彼らをみな飾り物として身につけ、花嫁のように彼らを帯に結ぶ。」(イザヤ49:16~18)

この箇所を読んだときに驚きました。「私が今、目の前で城壁を見ているように、主は目の前で私のことを見ておられる。しかも、崩れたままの城壁ではなく、花嫁のように飾られた私。回復された私。主がデザインされた者として私を見ておられる…。恋人が自分のてのひらに相手の名前を書くように、主の手には、私の名が書き記されている…。主は、私の罪、失敗を見てはおらず、主の思いの中には回復した私として映っている…。」そのことを悟ったときに、本当に慰められ、涙がこぼれ落ちました。

私たちは、あまりにも自分のことに注目し過ぎてしまっているかもしれません。自分の汚い罪、自分の足りなさ、自分の欠点…。しかし、自分がどのようであれ、詩篇130篇の作者のようにたとえ自分が深い淵にいようとも、真実なるお方に目を向け、真実なるみことばに立ち返り、十字架による解決を得たなら、自分の過去、また、今の状況がどのようであったとしても、私たちはあわれみと恵みを受けて、大胆に主の恵みの御座に立つことができるのです。

「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから延べたてよ。」(イザヤ43:25~26)

主が思い出さないと言ってくださっているのです。だから、「私は以前こんなことをしていたから…」と、いつまでも自分の過去を見続ける必要はありません。また、「自分はそんな資格はない」と言う必要もありません。もし主が私たちの不義に目を留められるなら、誰も主の前に立つことなどできないのです。

さて、私たちの教会の今年のテーマは、「栄光の教会」です。私たち教会が向かうべきゴールがエペソ人への手紙5章に記されています。

「ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためなのです。」(エペソ5:27)

私たちが栄光の教会となり、来るべき日に主の御前に立つこと、これがゴールです。

主が私たち教会を見る時、主の思いの中にはどのような青写真が刻まれているのでしょうか。 みことばによって洗われた教会。イエス様が頭となった教会。花婿なるイエス様と花嫁なる教会が一体となった教会…。あまりにもスケールが大き過ぎて、想像もつきません。なぜなら、これは奥義だからです。しかし、主の御座の前に出る者たちに、主はご自身の奥義を啓示してくださり、神のきよさに預かる者としてくださいます。

先ほどのイザヤ書のみことばにありましたが、主は、私たちに論じ合おうと呼びかけてくださっているのです。私たちが主の前に出るなら、主はご自身を現してくださいます。主に祈るなら、主は答えてくださるのです。祈りとは主との愛おしい対話です。主は私たちと時間を過ごしたいのです。聖霊様と交わり、また、みことばと水の洗いによって、主は私たちを日々きよめ、1人ひとりを「栄光の教会」と召してくださり、夫のために飾られた花嫁として主の前に立つ者としてくださいます。

現実的にはまだまだその領域に達してはいません。しかし、主は、私たちを「栄光の教会」として見てくださっていることを今日、覚えましょう。

栄光の教会、花嫁なる教会の完成を目指して主の御顔の前に立つ者たちを、ご自身の御霊によって、栄光から栄光へと造り変え続けてくださる主の恵みに心から感謝します。

■A:考えてみよう
主は、私をどのような者として見ておられるでしょうか。今日、自分の欠点や弱さを見るのではなく、主が見ておられるように、自分自身を見ましょう。

また、私たちは自分が置かれている神の共同体をどのように見ているでしょうか。教会の問題点や課題点、不足ばかりに目を留めてはいないでしょうか。今日、主がデザインされた「栄光の教会」として、主が見ておられるように見ようではありませんか。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ひさえ 】

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