■S:今日の聖書の言葉
マルコの福音書10章35~39節

★さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。

■O:今日のコラム
ヤコブとヨハネがイエス様の所に来て、イエス様が栄光の座に着いたなら、その座の右と左に自分たちを座らせてもらいたい、と願い出ました。当然、他の弟子からは激しい怒りを買うことになるのですが、私はもっと大胆なことを願っています。それは主とともに御座に着く者とならせてください、という願いです。しかしこれは御心に沿った願いなのです。

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示3:21)

主とともに座に座るのは、主と一人の人となっている花嫁だから許されるのです。結婚すれば二人は一人となるのです。

主の右左に座るだけでも、主と同じ杯とバプテスマを受ける必要があると言われました。ともに座るならなおの事です。その杯、バプテスマとは一体何でしょうか?

主はヨルダン川で水のバプテスマを受け、その後に御霊が鳩のように降って聖霊のバプテスマを受けました。しかしここでは「私の受けようとするバプテスマ」と言われました。まだ受けていないということが分かります。このバプテスマとは、十字架なのです。バプテスマとは、死と葬りと復活を象徴するものなのです。杯もそうです。イエス様はゲツセマネの園で「できるならばこの杯を避けたいと思っている」と告白しています。

イエス様であってもそれは簡単なことではありませんでした。それを可能にしたのは祈りです。そしてその祈りの中で覚悟を決めることなのです。イエス様もゲツセマネの園の祈りで初めは「できるならばこの杯を避けたい」と告白していますが、祈りの終わりには、「どうしても受けなければならないのなら、御心のままに」と覚悟を決めることができたのです。

この覚悟は人生の終わりに一度することではなく、毎日私たちに必要なのです。これは深い献身の覚悟です。身を捧げることが献身ですが献身は、去年、先月、昨日の献身では、不十分なのです。

「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(ルカ9:23)

ここでは、日々自分の十字架を負う、とあります。それは日々自分を捧げてこそできるのです。

夫婦は全てを共有するものです。イエス様と喜びを共有することを願うなら、苦しみをも共有する覚悟をするのです。愛することには覚悟が必要なのです。

■A:考えてみよう
私の願うようにではなく御心のためにお使いください、と主の御前に祈ることは重要です。避けることができない、避けるべきでない苦しみはあるのです。それは主を愛していることを証明させるために必要なテストなのです。

主を愛するために今日の時間のすべてが用いられますように。

■P:祈り
主よ。我が神、我が主、我が王であられる方。私はあなたのものです。イエス様の血の力を私の霊、たましい、からだに、知性、感情、意思に宣言します。すべてあなたの血によって買い戻されました。あなたのためにお使いください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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