■S:今日の聖書の言葉
第一サムエル記30章6節

★ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言いだしたからである。しかし、ダビデは彼の神、主によって奮い立った。

■O:今日のコラム
どんな人であっても、人生の中で失望・落胆を経験することがあると思います。しかし、唯一真の神を信じるものは違いがあります。それは、神に向かって救いを叫ぶことができ、その叫びに神が応えて救いをもたらしてくださるということです。

今日の通読箇所から、ダビデは三度も神の助けを経験したことを見ていきます。この助けはダビデにだけ起こるものではなく、私たちにも起こると信じます。ダビデの神は昔も今も、この先も決して変わることのないお方だからです。

(1)戦いに行かなくてよくなる

「さあ、あなたは、いっしょに来たあなたの主君のしもべたちと、あしたの朝、早く起きなさい。朝早く起きて、明るくなったら出かけなさい。」そこで、ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。ペリシテ人はイズレエルへ上って行った。」(第1サムエル29:10~11)

この時、ダビデはイスラエルの敵であるペリシテ人の領主であるアキシュのところにいました。しかし、イスラエルとペリシテの全面戦争が勃発しそうになりました。ダビデは正直、迷ったのではないかと思います。もし、アキシュについて戦うなら、自分の国民と戦うことになる。しかし、イスラエルの味方をするなら、アキシュを裏切ることになる。難しい選択です。ダビデはどちらを選んだでしょうか。前者です。

今自分が仕えている王に忠誠を果たそうとします。しかし、他のペリシテの領主は、ダビデが戦いに参加することを良しとしませんでした。いざというときに寝返って、ペリシテ人を内から倒すかもしれないと考えたからです。結果、アキシュは上のみことばのように、ダビデに参戦しないように言い渡し、ダビデはそれに従います。自分の願いよりも、自分が使えている王の言うことに従う、何という忠実さでしょうか。

神様は敵の意見を通してでも、私たちを導かれることがあります。私たちはいつもともにいてくださる神様の完全な守りの中に入れられていることを覚えましょう。

(2)主によって奮い立つ

しかし、ダビデがこの時住んでいたツィケラグに帰ってみると、なんと町が火で焼き払われ、妻や子どもがすべて奪われてしまっていました。

「ダビデとその部下が、三日目にツィケラグに帰ってみると、アマレク人がネゲブとツィケラグを襲ったあとだった。彼らはツィケラグを攻撃して、これを火で焼き払い、そこにいた女たちを、子どももおとなもみな、とりこにし、ひとりも殺さず、自分たちの所に連れて去った。ダビデとその部下が、この町に着いたとき、町は火で焼かれており、彼らの妻も、息子も、娘たちも連れ去られていた。 ダビデも、彼といっしょにいた者たちも、声をあげて泣き、ついには泣く力もなくなった。」(第1サムエル30:1~4)

みなさんが家に帰ったら、自分の家が焼かれ、すべてを奪われてしまったらどうでしょうか。彼らのように泣く力もなくなるのは当然のことでしょう。このようなピンチのときに、私たちの信仰の真価が問われます。多くの人は責任をリーダーであるダビデに押し付け、ついには石を投げて殺そうとまでします。

しかし、同じ悲しみ、いや、自分に付き従うすべての部下の悲しみを一手に背負ったリーダーのダビデの反応は違いました。この悲しみと絶望のドン底で、主によって奮い立ったのです。ここが大切なポイントです。自分の力でもなく、他人の力でもない。主によって奮い立つことが大切です。

この「奮い立つ」とは、「力づける」という意味です。ダビデは誰も慰めてくれず、味方にもなってくれない状況で、主によって自分のたましいを力づけたのです。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:1~2)

ダビデによる詩篇の中に多く見られるこのような告白は、このような状況を何度も通されたゆえに出てきたのでしょう。これがリーダーの信仰の姿勢です。自分で自分のたましいを教え、励まし、力づけるのです。

この場面で、みなさんがダビデの状況に立っていたならどのような反応をしますか?私なら、すべてを敵のせいにしたり、町を守っていなかった者のせいにしたり、あれこれと言い訳をするのではないかと思います。そこには何の解決もありません。目の前の問題をしっかりと受け止めつつ、自分のたましいを主によって奮い立たせ、そこから立ち上がることができるのが私たちの特権です。

ですから、これからはあの人やあの事のせいにするのはやめましょう。すべてのことについて感謝しましょう。そして、自分のたましいに向かって「わがたましいよ、主によって力を受けよ!主は今の状況や環境によらず、いつも良いお方ではないか!」と、みことばによって主の素晴らしさを教えてみましょう。

主は正しく歩む者に良いものを拒まれないお方であることを感謝します。ダビデがしたように、主ご自身の助けを求め、自分のたましいにみことばを教えていきましょう。結果、信仰によって、ダビデに問題解決の糸口、三度目の助けを経験します。

(3)
主によって奮い立ったダビデは、神様に敵を追って行くかどうかを伺います。結果は追っていけというものでした。そのことばに従い、出ていきます。そこで神様は思ってもみない人を送られます。

「彼らはひとりのエジプト人を野原で見つけ、ダビデのところに連れて来た。彼らは彼にパンをやって、食べさせ、水も飲ませた。 さらに、ひとかたまりの干しいちじくと、二ふさの干しぶどうをやると、彼はそれを食べて元気を回復した。三日三晩、パンも食べず、水も飲んでいなかったからである。
ダビデは彼に言った。『おまえはだれのものか。どこから来たのか。』すると答えた。『私はエジプトの若者で、アマレク人の奴隷です。私が三日前に病気になったので、主人は私を置き去りにしたのです。 私たちは、ケレテ人のネゲブと、ユダに属する地と、カレブのネゲブを襲い、ツィケラグを火で焼き払いました。」』
ダビデは彼に言った。『その略奪隊のところに案内できるか。」彼は答えた。「私を殺さず、主人の手に私を渡さないと、神かけて私に誓ってください。そうすれば、あなたをあの略奪隊のところに案内いたしましょう。』」(第1サムエル30:11~15)

天文学的数字の確率の出来事です。こんなことが起こるでしょうか?でも、神様は信仰の人にこのようにしてくださる良いお方です。この主人から捨てられた敵を手厚く看護した結果、彼が略奪隊のところまでダビデを導いてくれたのです。良きサマリヤ人のたとえを思い起こします。そして、奪われたものすべてを取り戻します。さらに、敵からの分捕り物を戦いに行った者だけではなく、待っていた者にも平等に分け与えました。

略奪隊にすべてを奪われたときに失ってしまったダビデの信頼は、これらの事を通して挽回されただけでなく、前以上の強い信頼を人々から得たのではないかと思います。

■A:考えてみよう
ダビデと自分の違いはなんだろうか?問題に直面した時、私はダビデのように主によって奮い立つことができるだろうか?

この時ダビデが体験した三度の助けは、モーセが海を分けたようなものでもなく、エリヤがバアルの預言者を打ち負かしたというような超自然的な出来事ではありません。しかし、いつもともにいてくださる主は確実に働いてくださり、ダビデを助けて下さったということがわかります。

神様は私たちの日常生活の中で働かれるお方です。今週のみなさんの生活を見返しても、神様はたくさんの助けを与えてくださったのではないでしょうか。それがわからなかったとしても、今この瞬間、このいのちが与えられているというだけでも尽きない感謝が湧き上がってこないでしょうか。

みなさんが気づいていようが気づかないでいようが、神様はみなさんの祈りに忠実に答えてくださっています。ツァラアトを癒やされた10人のうち、感謝しに戻ってきた者はわずか一人だけでした。

「そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、『イエスさま、先生。どうぞあわれんでください』と言った。
イエスはこれを見て言われた。『行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。』彼らは行く途中できよめられた。 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
そこでイエスは言われた。『十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。』それからその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。』」(ルカ17:11~19)

みなさんはこの一人になることができるでしょうか?感謝の生活は、私たちを信仰に進ませ、内なる人の完成へと到達します。どんな小さなことでも神様に感謝することが習慣となり、私たちの人格になるまで、自分のたましいに言い聞かせていきましょう。

その道程に近道はありません。毎日の意識と訓練です。今日から小さなことでもすべてを感謝する生活を始めましょう。場合によっては感謝ノートを作成し、日々の感謝を書き留めてもいいかもしれません。

■P:祈り
天のお父さん、今日もいのちのパンが与えられていることを感謝します。このいのちのパン、みことばは私たちのたましいを救うことができます。
今日、ダビデの人生を通して、主によって奮い立つことの大切さを知ることができたことを感謝します。神様は超自然的なご介入をもって私たちを助けてくださることもあれば、日々の生活の中で気づかないようなところでも私たちを助け続けてくださることもあります。
今まで、そのことに気づくことができなかったことを悔い改めます。聖書には「感謝することを知らない」ことは罪であると書かれています(第2テモテ3:2)。それはまさに私であったことを認め、主の御前に告白します。イエス様、このような私を赦してください。
いつも物事を人のせい、まわりのせいにして、あなたに栄光をお返しすることができませんでした。これからはみことばを朗読し、心に刻み、みことばを一番の頼りにして生きていきます。自分の感情を超えて、みことばの真理を宣言し続け、それに自分自身のたましいを従わせていきます。そして、どんな小さなことでも感謝することができるように、日々の生活の中で気づきを与えてください。それは知恵と啓示の御霊の為せる業です。
感謝の生活を通して、私の内なる人がキリストに似たものとして今日も成長させられますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【 しゅん 】

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