■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの黙示録20章11節

★また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

■O:今日のコラム
黙示録20章には最後の審判が記されています。さばきの座を覚えることは、私たちが主への正しい恐れを持って生きる為に非常に重要なことです。パウロはコリントの手紙でこのように言っています。

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。」(第二コリント5:10~11a)

パウロはバランス良く二つの相反する真理を自分の内に持っていました。「神の子どもであると同時に神の奴隷」、「赦された者であると同時に正しく裁きを受ける者」、主は「恵みの神であると同時に義の審判者」という概念です。

これはどちらに傾いてもバランスを欠きます。車の両車輪のように、この二つの相反するように見える真理が共に働く時、私たちの信仰生活は正しく前進するようになるのです。

私たちは絶対に恵みを忘れてはなりません。恵みを忘れる時に、信仰生活は律法主義に陥り主への愛と喜びを失います。しかし、現代は逆に、律法主義を避ける為に反対側にハンドルをきりすぎて恵み主義に傾いてしまいました。すなわち聖書が言う恵みではなく「何でもありの恵み」ユダの手紙によるとこれは「恵みを放縦に変えた」状態と言えます。

律法主義も恵み主義もどちらか一方に傾くなら不健全な信仰に陥ります。パウロや初代教会の聖徒たちが持っていた両方の真理を握る必要があります。主の御座を見てもそこには相反する性質があります。それは「恵みの御座とさばきの座」です。

これはとても矛盾しています。恵みはどこまでも赦し、さばきはどこまでも正しいさばきを行います。この二つの性質が一つの場所で共存することは不可能です。

この大きな矛盾はただ一つの場所においてのみ解決を得ます。それが主イエスの十字架です。十字架の縦の木は、どこまでも真実に父なる神の心を行い、真っ直ぐに父なる神の裁きを受けた御子キリストの姿であり、十字架の横の木は、どこまでも私たちを愛し、赦し、受け入れる為に広げられた、救い主キリストの姿です。十字架は裁きと恵みが一つに交差する場所です。

この十字架を通してのみ、私たちは恵みを受けて大胆に確信を持って主の裁きの御座へと近づいて行くことが出来るのです。神を敬わない者にとっては恐ろしいさばきの御座となりますが、主を愛し、神を敬い生きる者にとっては、そのさばきの座は全ての隠れた真実な行いと忠実さが明らかにされる、大きな報いを受ける恵みの座となるのです。

主のさばきの座を心に覚えて、一日一日を歩んでまいりましょう。

■A:考えてみよう
ダビデは主のさばきを自分の喜びとして生きました。この地上で正しくさばかれるならそれは大きな恵みです。なぜなら、来るべき時に主の御座に大胆に義の実を持って出ることが出来るからです。

主の愛ゆえのムチを日々慕い求めて生き、主の御心にかなわない領域が自分の内にあるなら、それが刈り取られ、改善されることを願い求めましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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