■S:今日の聖書の言葉
詩篇101篇1節
★私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう。
■O:今日のコラム
シャローム!御国が来ますように!
「恵み」と「さばき」を歌うとはどういうことなのでしょうか?「恵み」と「さばき」は、どちらも神様のご性質であり、相反するものです。「恵み」とは、どこまでも私たちを愛し、赦し、受け入れる。受けるに値しないものが、神様から一方的に受ける好意、祝福と言えるでしょう。
「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:16)
「さばき」とは、完全であり、ブレのないものです。全ての生きるものはこの地での行い以外にも心の中で思い描いたことさえ、神のさばきを受けます。「さばき」と聞くとおそろしく感じる方もいるかも知れません。しかし、神を愛し、御言葉に歩むものにとっては祝福であり救いの完成です。
「…私をさばく方は主です。ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」( 第一コリント4:4~5)
「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(第二コリント5:10)
以前、メッセージで「恵み」と「さばき」は共存することは出来ないけれども、2つが交わるのは「十字架」ですと言うことを聞きました。
そうです。つまり、「恵み」と「さばき」を歌うとは、十字架の御業を歌うということではないでしょうか?ダビデは旧約の時代を生きていましたが、十字架の御業を歌っていました。
是非、私たちは今一度、自分がどこから贖われ、救いの道へと入れられたのか思い返しましょう。自分がどのような者で、どこから贖われたのか。それを悟り、思い返す時、十字架の偉大さ、流された血潮の尊さ、計り知れない神様の哀れみ深さを知り、感謝しない、礼拝しないでは生きていかれないでしょう。
これが私たちが神様に歌う、賛美する、礼拝を捧げる最大の理由ではないでしょうか?
「彼らは大声で言った。『ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙示録5:12)
御座の前ではほふられた子羊に絶えず礼拝、賛美がささげらていますから、私たちも神様に感謝し、礼拝をささげましょう。
■A:考えてみよう
この年末の季節、今一度私たちはどこから贖われて、どこから救いの道へと移されたのかを思い返し、神様に感謝し、礼拝ささげましょう!
十字架の御業、偉大さをますます知ることが出来ますように、祈りましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まな 】
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