■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書21章7節(詩篇99篇)

★そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

■O:今日のコラム
今日の通読箇所は、ヨハネの福音書の最後の章です。ヨハネがこの福音書を締めくくるに当たり、選んだ人物がペテロでした。時代はイエス様が十字架にかかられて、復活された直後の話になります。場所はテベリヤの湖畔ですので、ガリラヤ湖の南西部です。

1節に

「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。」

とありますので、このときはペテロは復活のイエス様にお会いするのは二度目であるということがわかります。
イエス様は弟子たちに前もって十字架の死と葬りと復活を告げていました。はたしてそれが現実のものとなりました。しかし、ペテロは復活されたイエス様に会って嬉しいのと同時に、重苦しさを感じていたのではないかと思います。なぜなら、ペテロはイエス様を三度も「知らない」と言って裏切ってしまったからです。

その後ろめたさからでしょうか。ペテロは使徒としての働きを脇に置き、再び以前の仕事であった漁師に逆戻りしてしまいました。

「シモン・ペテロが彼らに言った。『私は漁に行く。』」(3節a)

ペテロはマタイ16章で御国の鍵を受け取りました。また、水の上も歩きました。五千人の給食の奇跡も体験しました。あらゆる悪霊を追い出し、病を癒しました。使徒としての働きを行っていましたが、イエス様の十字架以降、聖霊が注がれるまで使徒としての働きを見ることができません。

これは、ある意味現代の私たちを象徴しています。なぜなら、様々な節目で「イエス様が私たちを迎えに来られる」という話題が出てはそれが実現されないままで今に来ています。やがて人々の期待は薄れ、祈りの生活を諦めてしまう…。

その結果もみことばに書かれています。

「しかし、その夜は何もとれなかった。」(3節b)

イエス様が命じられたことから離れてしまうなら、結果は虚しいものになります。
結局、私たちの地上での使命はみことばに従うか従わないかです。みことばに従う者には祝福があり、従わない者にはのろいがある。申命記に特にこのことが書かれていますが、これが私たちの地上での使命です。すなわち、これが主を恐れる生き方です。

そんなペテロに、イエス様は岸辺から話しかけられます。

「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」(5節)

これは、詳しい訳を見ると「若者たちよ、何かパンのおかずになるものがとれたのか?(肉[魚]は持っていないだろう?)」という問いかけです。弟子たちは「持っていません。」と答えます。

すると、イエス様は言われます。

「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」(6節)

ペテロはそのとおりにすると、153匹の大きな魚が獲れます。みことばに従う結果を見ることができます。
それに加え、このことはペテロが最初にイエス様に呼ばれたことを思い出す出来事だったのでしょう。

「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」 彼らはすぐに網を捨てて従った。」(マタイ4:18-20)

ペテロはイエス様によって最初の召命へと引き戻されました。その時のペテロの行動が興味深いものになっています。

「そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。」(7節)

イエスの愛されたあの弟子とはヨハネのことです。素晴らしいアイデンティティです。彼が「主です!」というと、ペテロは上着を着て水に飛び込みました。
この出来事は、アダムが罪を犯した後、イチヂクの葉で腰覆いを作り、園の草むらに隠れ、主の御顔を避けたことを思い出させます。
しかし、それと同時に、ペテロの幼子のような心を見ることができます。ペテロは一刻も早く主の御下に生きたかったのでしょう。その証拠に、他の弟子たちの行動はこのように書かれています。

「しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。」(8節)

そして、イエス様は岸で炭火を起こし、魚とパンを用意してくださいます。

「こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。」(9節)

まるで、詩篇23篇5節の光景のようです。

「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

神に頼ることをせず、自分の力で何とかしようとした、漁師という働きの前で主は食事を整え、油を注いでくださいます。それが「わたしを愛しますか?」とペテロに三度尋ねることにつながっていきます。

奇しくもペテロがイエス様を裏切ったときにも炭火の前であり、またイエス様に三度赦されるのもまた炭火の前であるということも大変興味深いことです。

まとめます。私たちを神以外ものもに頼らせようとすることは偶像崇拝につながります。もちろん、この世で生きていくために働くことも大切ですが、神様ご自身が「神の国とその義とを第一とするならすべて与えられる」「心配するな」と繰り返し言ってくださっているのに、あいかわらず神に頼らず、それ以外のものに頼ってしまう弱さがあります。
「まあ、みことばはそう言うけど、実際は…」というのは、みことばの約束を信じておらず、神を恐れていないということになります。

今日もみことばは「主です!」と言ってイエス様を指し示してくれます。それに応答するかしないかを選択するのは私たちの責任です。
イエス様は私たちの内にいまだに罪の性質があることをご存知です。それを知った上で、私たちを受け入れ、愛してくださいます。
今日もイエス様の血潮を持って、主の御座の前に進み出ていきましょう。

■A:考えてみよう
少し時間をとって真剣に考えてみてください。今の生活は神の国とその義とを本当に第一にしているだろうか。教会での姿と、それ以外の姿が一致しているだろうか。この世に未練はないだろうか。イエス様とまだ出会っていない人々の生活をうらやましく思っていないだろうか。
もう一度、はじめの愛に立ち返り、自分の召しを思い出してみましょう。犠牲を払ってでも祈りの家に来てひざまずき、主の御座の前に進み出ていきましょう。
たとえ今まで神様を悲しませるような生き方をしてきたとしても、心から悔い改め、生き方を変えていくなら、主は私たちに新しい使命を与え、油を注いでくださると信じます。

■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたの愛を心から感謝します。私の中にいまだに罪の性質があることを認めます。この罪の性質がいつも私を誘惑し、神から目をそらせ、神以外ものもに頼らせるようにしてしまいます。
どうか今日、あなた以外に頼るものはないという悟りを与えてください。わきまえのない、愚かな私はまるで暗闇のような状態です。光の祭りと言われるハヌカの祭りの真っ只中の今日、みことばの戸が開き、光が差し込み、わきまえのない私が悟りを得ることができるように助けてください。
たとえ失敗しても、どこまでもイエス様だけを見続けてがむしゃらに走り続けるペテロのような信仰と情熱を与えてくださいますように。
そして、決して失望に終わることがない希望、主が私たちを必ず迎えに来てくださるという希望を捨てることなく、眠ることなく祈り続ける情熱を与えてください。
忠実なお方、真実なお方である愛の神、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【しゅん】

カテゴリー: マナメール

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