■S:今日の聖書の言葉
ヨハネによる福音書18章38~40節

★ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」彼はこう言ってから、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人には罪を認めません。しかし、過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」
すると彼らはみな、また大声をあげて、「この人ではない。バラバだ」と言った。このバラバは強盗であった。

■O:今日のコラム
イエス様は罪なき者と認められながら、十字架での処刑へと進んでいきます。旧約聖書でもいけにえとして捧げられる羊は、見張られて傷がない物と認められなければなりません。

そして罪なき、傷のない神の子が死刑になるのと引き換えにバラバが釈放されました。バラバとはバル(子)アバ(父)のことで、父の子という意味です。まことの父の子が引き渡され、罪にまみれた父の子が解放されたのです。これは私たちのことです。

これはどれくらい大きな犠牲なのでしょう?皆さんは、やっていないのに「この人がやりました」というレッテルを張れらることのしんどさを知っているでしょうか?本当に自業自得であるなら「しょうがない」という気持ちにもなれるでしょう。

きよければきよいほど汚れることに対する抵抗感は大きくなります。イエス様はどれほど大きな犠牲を払われたのでしょう。そして最も大きな犠牲を払われたのは父なる神です。冷血な悪人であるなら子を捧げることにも抵抗が少ないかも知れませんが、神は人知をはるかに超えた愛を持っておられる方です。いえ、神は愛なのです。その神が愛するひとり子を犠牲にすることはどれほどの苦痛なのでしょう。

私も3歳の子どもの顔に、血がしたたるほどの大きな切り傷ができたときには、自分の顔が傷ついた方がマシだ、と思いました。心がえぐられるような思いなったことを覚えています。父なる神にとって御子を捧げることが、どれほど大きな犠牲なのかは人間には計り知れません。

私たちの理解を遥かに超えた犠牲によって私たちは解放されたのです。人知を遥かに超えた愛で私たちは愛されています。

■A:考えてみよう
この十字架のみわざを褒め称えましょう。安息日ごとに主のしてくださった良いことを思い返し感謝しましょう。

■P:祈り
主よ。私の存在理由であり、私の存在の目的であられる方。あなたが私を愛してくださっているから私は生きています。あなたのしてくださったみわざを褒め称えます。安息の中に入る度に、主のしてくださった良いことを思い返し、感謝を捧げることができますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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