■S:今日の聖書の言葉
ヨハネによる福音書9章39節

★そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

■O:今日のコラム
この箇所で、「見える者が盲目となる」状況が自分にもあると気づかされます。この「見える者が盲目となる」パリサイ人の姿から、自分にも同じ性質があることを思わされました。

「すると、パリサイ人の中のある人々が、『その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ』と言った。」(ヨハネ9:16a)

「彼らは答えて言った。『おまえは全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。』そして、彼を外に追い出した。」(ヨハネ9:34)

パリサイ人は自分を正しいとし、イエス様を裁き、決して主とは信じられませんでした。また、盲人をみくだし罪に定めていました。私たちの中にも、このパリサイ人の性質はないと言えるでしょうか?私には残念ながらあります。聖書の御言葉を退け、自分を正しいとし人を裁き、自分の意見で訴えてしまう時があります。もしそうするのなら、見える者が盲目となる状況が出来上がってしまいます。

私たちは、この盲目から見えるようになるためにはどうすればよいのでしょうか?

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(第2コリント3:16~18)

「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれる」このように書かれています。私たちが見なければならないのは、主です。ただただ主に向いていくのなら、自分にかかっているおおいが取り除かれていくことを体験します。そして、人を見張る必要も、裁く必要も、自分が正しいと訴える必要もなかったと知るのです。そして、悔い改めるべきは自分だったと悟ります。

見るべきは御言葉なる主であり、見張るべきは、自分の心です。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

そして何よりも、そこに留まり続けることなく、御霊に導かれ主と同じかたちに姿を変えられていくことを、追い求めていきたいと願います。見るべきものを見て、絶えず悔い改め前進していきましょう!私たちの内が、御霊の実で満ち溢れますように!!

■A:考えてみよう
・本当に自分は「目が見える」と言えるでしょうか?
・裁きの座に着いていないでしょうか?悔い改められるよう、神の慈愛を求めて祈っていきましょう。(ローマ2:1~6)

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 おりえ 】

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