■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書7章37-38節(士師記21章)

★さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

■O:今日のコラム
聖書の中には「主の例祭」というものが出てきます。これは神様が定められた祭りです。律法で規定されている必ず守らなければならない祭りです。その祭りとは安息日、過越しの祭り、五旬節(七週の祭り)、仮庵の祭りです。
安息日は毎週土曜日に巡ってきます。それ以外の祭りは一年に一度巡ってきます。そして、初代教会の人々は祭りが来るとその時その時に示される神様の啓示を求めて祈り、その恵みに感謝するのです。
つまり、祭りが巡ってくるたびに神様に目を上げるきっかけとなっていたということがわかります。
今日の聖書箇所ではイエス様もこれらの祭りを守っておられたということがよくわかります。ヨハネの福音書7章は秋の祭りである仮庵の祭りのシーズンに起こった出来事です。
イスラエルの仮庵の祭りの時期は長い夏が続き、乾燥している時期です。そのときにイエス様は「生ける水の川」を宣言されました。ここに重要な啓示があります。

秋の仮庵の祭りはイエス様の再臨を啓示する祭りで、唯一まだ成就されていない、これから成就していく祭りとなります。過越しは初臨のイエス様を啓示し、五旬節は聖霊様の注ぎを啓示しています。これらはすでに起こったことです。それであれば、秋の祭りが示すイエス様の再臨も必ず起こります。

なぜ、イエス様は「生ける水の川」を宣言されたのでしょうか。その理由のひとつ目は、当時の人々の祭りの祝い方にあるようです。
先程も述べたとおり、主の例祭は律法に規定されているものなので、必ず守らなければならないものです。
しかし、長い歴史で人々はいつの間にか祭りの本質を忘れ、形だけ守っていたようです。
この仮庵の祭りの最後の日、八日目は大いなる祭りの日です。一年の祭りの一番最後の日であり、祭りの完成を盛大にお祝いする日です。つまり、祭りの最高潮の時であるということができます。
この祭りの最中、祭司はきれいな服を着て金の柄杓で神殿の近くにあるシロアムの池から水を汲み、神殿にまで運ぶという事を行っていました。かつてイスラエルの人々が荒野でさまよっていたとき、神が苦い水を甘い水に変えてくださったことを記念しています。
(ちなみに、これはイザヤ12章の成就でもあります。水はヘブライ語で「マイーム」と言います。このイザヤ12章が歌となったのがマイム・マイムです。)
人々の心の中に、そのような感謝の心を見ることができず、ただ見た目の派手さだけに目を奪われている人に向かって、イエス様は言われました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

「祭りの本質はわたしだ。わたしのところに来て、わたしを信じなさい。」と言うメッセージを見ることができます。
イエス様は現代の私たちにも同じ言葉をかけておられるのではないかと思います。
教会の派手さやイベントだけに心惹かれ、また、行われる奇跡やしるしなどの現象だけを求めて教会に行くのであれば、当時のイスラエルの人と同じような事をしてしまっているという事を覚えなければいけません。

水はいのちです。水がなければ人は生きていけません。イエス様はこの水を霊のレベルで語られました。霊が生きていくために必要な水とは、このあとの39節にかかれてある御霊です。

「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。」

イエス様は「単なる目に見える水ではなく、永遠のいのちに至らせる水を飲みなさい。それはわたしのところに来なければ飲むことができない。」と言われたのです。
水を飲むためには、まず、自分が渇いている事を知らなければいけません。いつでも神様に対する激しい飢え渇きが与えられますように。

では、この「生ける水の川」はどこから流れると書かれているでしょうか。それは、「その人の心の奥底から」と書かれています。
だから、私たちは自分の心を見張る(祈る)必要があります。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)

私たちの心の中心を占めているのは何でしょうか。自分自身ですら、そこに居座ることは望ましくありません。私たちの心の中心、心の王座にはイエス様に来ていただき、支配していただかなければなりません。
ですから、私たちは絶えずみことばを蓄え、御霊によって祈り、心を点検し、見張っておく必要があります。苦い水と甘い水は同時に同じ泉からは出てきません。相変わらず私たちが罪の性質に従って肉の歩みをしているなら、キリストの香りではなく、肉の悪臭を放っていることになります。

みことばの正しさを知るなら、自分の内にある肉の性質が明らかにされます。これが神への飢え渇きへとつながっていきます。なぜなら、人は自分の力でこの罪の性質をどうすることもできないからです。
私たちの罪を取り扱うことができるのはただイエス様だけです。私たちが絶えず神に飢え乾き、鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、いつでも御霊を求める生き方をしていきましょう。

■A:考えてみよう
私は神に飢え渇いているだろうか。「自分でなんとかできる」と思っていないだろうか。生活のすべての領域で神様を認め、神を第一とする生活を送っているだろうか。
仕事をするにしても、勉強をしていても、お皿を洗うときでさえも神様を求めているだろうか。
私たちが生きている限り、神様のご介入が必要ないという瞬間はありません。一瞬、一瞬、神様の導きが必要です。眠るときでさえ、神様が必要です。
これが神に飢え乾く生き方、別の言い方をすれば神を恐れる生き方です。このような生き方を神は喜ばれます。そして、この地上で忠実に敬虔に歩んだものには、天で大きな報いを用意して神が待っていてくださいます。この希望を覚え、今日も主に感謝して歩んでいきましょう。

■P:祈り
愛する天のお父さん、私を神の子とし、聖霊様を送ってくださったことを感謝します。この御方が来られるなら、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせることができます。
どうか、御霊の働きによって、私は神様に愛されている存在ですが、同時に不完全であるということも悟らせてください。この不完全さ故に、私は神に飢え乾きます。
私を満たしてくださるのはイエス様の他ありません。今日も私のいちばん大切な所、心の奥底をきよめてください。いのちの泉はここからわきます。私から、きよい水が全世界へと溢れ流れていきます。
形だけの礼拝ではなく、霊とまことを持って主を礼拝する真の礼拝者へと私を作り変えてください。
私を愛し、私を日々新しく作り変えてくださるイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【しゅん】

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