■S:今日の聖書の言葉
ヨハネによる福音書4章23~24節
★しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
■O:今日のコラム
主が求めているものがここに書かれています。主ご自身がリクエストされているそのリクエストに応えるのは最高の愛し方であると思います。それは霊とまことによる礼拝者です。
主が求めておられるのは、立派な礼拝ではなく(もちろんそれは素晴らしいです)、むしろそれを捧げている私たちにフォーカスが当たっているのです。主は物に困っていません。何か仕えてもらう必要があって困っておられるのではありません。最高の捧げ物をするのは良いことです。しかし、その最高の捧げ物を喜ぶというよりは、その最高の捧げ物を喜んで捧げる私たちを喜んでおられるのです。
私たちも主が与えてくださる経済、健康、賜物などを喜びますが、それ以上に、私たちに豊かに与えてくださる主ご自身を喜ぶのです。
霊によって礼拝するから、といって異言だけ、賛美だけ、感情だけのような礼拝は、父が求めている礼拝とは違うかもしれません。もちろん異言は良いものであり、賛美は素晴らしいし、感情が溢れることは良いのです。しかし、まことが欠けるのは良くありません。
御言葉抜きに異言や賛美の礼拝をするなら、霊的な礼拝かもしれませんが、語りかけているのは神の霊なのか、他の霊なのかの見分けも曖昧になり、逸脱してしまうかもしれません。
「熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。」(箴言19:2)
まことによって礼拝するから、といって形式だけの礼拝をするとそれは宗教になってしまいます。もちろん正しいことをしているかもしれませんがそこに、いのちの喜びがなければ結局「いつも喜んでいなさい」という御言葉を破っています。
御言葉を読んで日常生活でそれを行なって神に仕えるとは素晴らしいですが、異言やその他の祈りや、賛美をしないのであれば、正しく礼拝を捧げようとしながら霊に燃え主に仕えることができず、父が求めていることに応えることはできません。その両方が必要なのです。御言葉と祈りです。
これは、ダビデの幕屋の礼拝とモーセの幕屋の礼拝にたとえることができると思います。ダビデの幕屋の礼拝は、それまでの礼拝規定に沿っているとは言えない型破りなものでした。そこでは預言的な賛美が捧げられ、喜びが解き放たれていました。一方モーセの幕屋は、規定に従っていましたが、賛美の歌が捧げられることはなく、喜びが満ち溢れるという感じではありませんでした。
この両方が一つになったものがソロモンの神殿です。これは霊とまことによる礼拝の雛形です。
真理の御言葉と真理の御霊、どちらも大切にする礼拝を捧げる礼拝者となることを求めましょう!御言葉を朗読しましょう。異言で、また知性で祈りましょう。御言葉と祈りによって礼拝は引き上げられていくのです。そして完成した神殿となるときを迎えましょう!
モーセの幕屋があり、ダビデの幕屋がありました。今がダビデの幕屋の建て直されるシーズンです。しかしその後にソロモン神殿のシーズンが待っているのです。ソロモンとはシャロームから派生した語であり、主の全き統治をあらわしています。その時が千年王国の時代なのです。
■A:考えてみよう
御言葉の朗読と異言と知性での祈りの両方を大切にし、主との時間を持ちましょう。あまりにもかたよりがあるのは、良くありません。主を恐れる者は、一方を握って、もう一方を離さないのです。
■P:祈り
主よ。私に御言葉と御霊に対する飢え渇きをお与えください。今日、御言葉を朗読する中で日ごとの糧を与えてくださることを感謝いたします。また主の霊を豊かに注いでくださって、御霊に導かれて生きることができるようにさせてください。真理の御言葉と真理の御霊を愛し、従います。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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