■S:今日の聖書の言葉
テモテへの手紙 第二 2章15節(ヨエル書2章)
★あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。
■O:今日のコラム
テモテへの手紙は、熟練したパウロが若い献身者であるテモテに宛てた手紙です。すなわち、未熟な私たちに向けられた手紙としても捉えられるでしょう。
その観点からテモテの手紙を見るなら、たくさんの「〜さい」を発見することができると思います。これは、初代教会の時代、師匠から弟子に伝えられた一般的な形となります。それを「教えと伝授」と言います。
パウロは若いものに教えるだけでなく、自分の生き方を通してその事を弟子たちに伝えていました。
そのようなパウロが愛するテモテに送った勧めのことばが今日のみことばです。
「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」
熟練したものとはどのような者を指すのでしょうか。それは、「試験によって試された者」という意味です。
学校ではたくさんのテストがあります。それは本来、人と点数を競うものではなく、自分がどれほど理解し、何がわかっていないかを知るためのものです。同じように、主からの人生の試練(テスト)も、自分に足りないものは何か、また、主が今、私の人生に何を望んでおられるのかを知ることができる貴重な機会なのです。
ヤコブの手紙1章2節にはこのように書かれています。
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」
大人になると、なかなか自分の足りない部分を人から指摘してもらえなくなります。しかし、試練がやってくるなら、それを通して主ご自身が私たちの足りない部分を教えてくださいます。これは成長する、すなわち内なる人が建て上げられていく過程でとても大切なことであることがわかります。
みことばには「熟練したもの」のあとに「すなわち」という接続詞がやってきます。つまり、「熟練した者とはこのような者だ」という具体的なことが書かれています。
ひとつめは「真理のみことばをまっすぐに解き明かす」者です。
これは、みことばを間違いなく分析するものです。つまり、みことばを正確に分解し、みことばを神の権威として正しくとりあつかい、また巧みに教える者のことです。
ペテロの手紙 第二 1章20,21節にはこのように書かれています。
「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」
私を含め、全世界の教会で、どれほどみことばの私的解釈がなされているのでしょうか。
みことばの本質を追い求め続けなくてはなりません。自分がみことばをどう思い、受け取るかという以上に、神様がみことばを通して何を語られたいのかということにまず注目しなければなりません。
そう考えれば、みことばを受け取るときにも常に自分の意見に死に続けなければならないということを思い起こさせられます。
依然として自分中心の考え方(神学)があるのであれば、神のことばを神のことばとして素直に受け入れることは難しくなるでしょう。私は神学を否定しているのではありません。それは正しいことですが、「こうすべき」「これこそが」などという自分の正しさをみことばの前にいつでも放棄できる状態が素晴らしいなと思います。
パウロはまたテモテにみことばの教師になることを勧めます。これは、主を信じる全てもの者に宛てられていると信じます。私たちはみことばに練達し、そのとおりに生き、その生き方を通してみことばを次世代に伝えるみことばの教師として成長する必要があります。
皆さんも何かを教えたことがあるなら、その難しさと喜びを味わうでしょう。人に教えるためには常に教えるものは学び続けなければいけません。学んだことをわかりやすく伝える技術も必要でしょう。苦労して準備して、教えたあと、一番教えられているのは自分自身であるということにも気づくでしょう。
ですから私は、いつの間にか何かを聞く時に、「これを人に教えるにはどうしたらいいか」という視点で聞くようにしています。必要であればメモを取り、どんな小さなことでも、いつでも呼び出せるようにコンピュータに登録しています。
皆さんもそれぞれに工夫して、みことばを正しく、巧みに教える者になることを目指していきましょう。
そして、次に来るのが「恥じることのない働き人」です。
これは、「恥ずかしく思う必要のない働き人」ということです。パウロはそのためにコリント人への手紙 第一9章27節でこのように語っています。
「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。」
人に教えておきながらそのとおりに生きていない人には権威が伴いません。それが恥ずかしい働き人です。つまり、律法学者やパリサイ人です。
私たちはそのような者であってはなりません。信仰と行いが一致する敬虔な者とされていく必要があります。みことばを聞くだけで満足するのではなく、実行していきましょう。行いのない信仰は死んだものです。(ヤコブ2:26)
そして、「自分を神にささげるよう、努め励みなさい」とあります。自分自身を神の御前に捧げるために努力し、熱心に最善を尽くす必要があります。
私たちの人生はイエス様に出会ってそれで終わりではありません。神の十字架の贖いはゴールではなくスタートです。もし、イエス様に出会ってそれだけで天国に行けるのであれば、信仰告白をしてあとは自分の好きなことをしていればいいでしょう。
しかし、聖書はそうは教えません。イエス様と出会って、楽しいことやいいことがたくさんあると思ったら、逆に大きな試練が来て、そのことにつまづいてしまう人がいるかもしれません。もしかしたら、それは本当の福音に触れていないからかもしれません。
私たちが神によって創造された者だということ、また、本来なら許されるはずもない大きな罪を持ったまま生まれたということ、それを取り除くためにイエス様が来てくださったこと、この方と共にあゆみはじめるなら苦難を共にすること、しかしその苦難は後にくる大きな栄光を見るためだと言うことを理解するなら、試練につまづくことはないでしょう。
まとめると、信仰生活は自動的に更新されていくものではなく、努力が必要だということです。
神様は独り子を失うという犠牲を払ってくださいました。イエス様も死に従われ、復活されました。聖霊様も今この瞬間も私たちの中からうめきを持って絶えずとりなしてくださっています。
それなのに私たちはその上にあぐらをかいて何もしなくてもいいのでしょうか。これは恵みを放銃に変えていることです。
努力してみことばを受け取り続けなければなりません。自分の体を打ち叩いてでもみことばに従うように生きていかなければなりません。それを独り占めするのではなく、多くのものに教えて行かなければなりません。
みことばが教えるこのプロセスを通されるなら、私たちの内なる人は健康的に成長していくでしょう。
そのために、この2章の冒頭でこのよう私たちに励ましのことばを送ってれています。
「そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。」(2テモテ2:1)
これは、「キリスト・イエスの内にだけ見出される恵み、すなわち霊的祝福によって、あなたの内なる人が強められなさい」という意味です。
イエス・キリストはみことばです。この恵みによって私たちの内なる人は建て上げられていく必要があります。
毎日小さな事かもしれませんが、これを続けていくことでこのみことばが実現していくでしょう。
「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。 」(2ペテロ2:20-21)
■A:考えてみよう
自分は真理のみことばを真っ直ぐに受け取れているだろうか。一文だけ抜き出したり、前後関係を確認せずある一つの単語だけをピックアップして解釈したりしていないだろうか。
みことばは聖書66巻で完成です。小さく詳しく調べる目線と、大きく俯瞰して見る両方の視点でみことばを受け取りましょう。
また、恥ずかしい生き方をしていないだろうか。周りの人の証となっているだろうか。
職場や学校で、他の人よりも努力し、仕えているだろうか。周りから一目置かれるような存在になっているだろうか。
イエス様にまだ出会っていない人よりも低い基準で生きているのであれば、私たちは恥ずかしい人になってしまいます。そのような生き方はイエス様の顔に泥を塗り、真理を間違って人々に伝える生き方になります。
まずは一日ひとつずつ、小さなことからでもいいので確実にみことばを受け取り、それを実行していきましょう。
皆さんお一人おひとりが聖められた器、神の手にピッタリフィットする使いやすい器として砕かれ、大きく用いられていきますように。
■P:祈り
愛する天のお父さん、今日のみことばをありがとうございます。私はこの霊的な食物がなくては生きていくことができません。みことばを今日も食べます。食べ物が味わって終わりではなく、飲み込んでそれが私たちのエネルギーとなるように、みことばを聞くだけで満足するのではなく、行うことでみことばの人とさせてください。
そのために、私からみことばの私的解釈を取り除いてください。聖霊様が来てくださるなら、罪につてい、義について、さばきについて悟らせてくださいます。誠の教師である聖霊様が私をみことばの真理へと導いてくださいます。知恵と啓示の御霊で今日も満たして下さい。
どうかわたしの内なる人が今日もキリストにだけ見出される霊的祝福によって強められていきますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【しゅん】
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