■S:今日の聖書の言葉
イザヤ書64章8節

★しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。

■O:今日のコラム
神であられる私たちの主は私たちの陶器師で、私たちは粘土です。私たちがあらゆる良いわざに間に合う器、主にとってちょうど良い器となるため、そしてさらに実を結ぶ者となるために、神様が私たちをイエスキリストの似姿へと造り変えるとき、私たちは試練や困難、苦しみの中を通ることがあります。

その中で私たちが主の心を悟れず、試練を喜べないでいる時、最初はその苦しさ・痛み・悲しみなどのゆえに、「神様なんでですか」と思うこともあるでしょう。しかし、その試練や苦しみ、困難を通して、心砕かれ、自らが悔い改め、主の心に立ち返ることに導かれ、主のみことばを学び、主の十字架の赦しを経験し、主に信頼すること、主だけを恐れること、主への従順を学び、主が真実なお方であることを経験します。

主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ(詩篇34:18)、どんな試練や苦しみ、孤独のときも主はいつも共にいてくださり、試練や葛藤、苦しみの真っ只中で主と出会い、「主と共に歩むこと」を体験し、いつも主とともに歩む歩みがますます真っすぐにされ、主との関係がより深くされていくのです。

試練や苦しみの中で造り変えられることを経験するとき、私たちは自分が砕かれ、主の御前に悔い改め、へりくだることを学ばせられると同時に、本当に主に愛されていること、主に選ばれていること、主に赦されてることをますます深く知っていきます。

主にとってちょうどよい器に造り変えられるには、私たちが悔い改めてイエス様の似姿に日々造り変えられていくには、「私自身が砕かれ悔い改め、造り変えられる必要があること」と、「本当に主に愛されていること、最高傑作として造られていること」の両方を握る必要があります。

私たちは悔い改め、主に立ち返ることを日々の歩みの中で継続して行っていますが、それは主に愛されるために悔い改めるのではなく、主に対する正しい恐れではない主の愛から離れた「恐れ」のゆえに悔い改めをするのでもなく、何かを成し遂げるためや自分自身の目的達成のために自分が変わろうと悔い改めるのでもなく、主に愛されている者として、主への愛の応答として、悔い改めていくからです。

「私は主の最高傑作であり、主に愛されている」ということと「陶器師である主によって砕かれ、変えられる必要があること」の2つを同時に握る歩みは、主を恐れる者の歩みです。主を恐れる者は、2つのことを握るからです。

「一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。」(伝道者の書7:18)

何か一つを握るためには、私たちは2つのことを握らないといけないことがあります。2つのことを握らないと、本当に握ることができないことが多くあるのです。

私たちは毎日毎秒いつも主が必要なのと同じように、日々悔い改め、主に全てを明け渡し、主の御言葉に立ち返ることが必要です。しかし、自分の変わらないといけない部分、自分の弱さ、罪、足りなさ…etcなど、自分だけにフォーカスすると、天の父に愛されている神の子であること、自分が最高傑作として造られ、主に選ばれていることを忘れて、孤児の思い(間違った恐れの思い、評価や愛を得る思い、自分はダメだという自己卑下)から悔い改めをしてしまうかもしれません。

また、多くの場合、悔い改めでつまずいたり、悔い改めが悔いるだけで終わり、方向転換がなされずに悔い改めの実を結べないのは、主の愛を受け取って、主の愛を握ってないことが大きな原因であると思います。

主の慈愛が悔い改めに導くとあるように、主は愛なしに悔い改めを導くことはなされません。真の悔い改めは主の愛の中で悔い改める必要があり、悔い改めとは主の愛にとどまることだからです。

そして逆に、もし極端に私はそのままで愛されているというようなことだけを握るなら、日々悔い改め、イエスキリストの似姿に造り変えられることを求める歩みをないがしろにしてしまう場合もあるかもしれません。しかし、「主に愛されてるから、変わらなくていい」と思うことは実際にはあり得ないことです。

もし本当に主に愛されていることを体験するなら、日々主の愛を受け取り、主に愛された者であると深く知るなら、私たちは日々悔い改めずにはいられなくなります。自分が砕かれ、内なる人が新しくされ、主の似姿に造り変えられることを猛烈に願ってやまなくなります。

主にもっと近づきたいからです。もっと主を愛したい、主の心を行う者になりたいと切に望むからです。主が十字架でいのちを捧げるほどに愛してくれたその愛に私も答えたい、イエス様のように歩みたい、主の道を行きたいと切に願うからです。

痛みや苦しみを通ったとしても、その中で主が私たちをキリストの似姿に造り変えること、器である私たちを砕くこと、私たちの内なる人を新しくされること、それこそが主からの愛のラブコールです。

主が私たちに「もっとわたし(主)に近づけたい、もっとわたし(主)の心を分かち合いたい、わたし(主)の心ともっと一つにさせたい、御国を相続させたい、花嫁として整えたい」という主からの愛の招きです。

私たちは、人知をはるかに超えたキリストの愛を知り尽くすことはできず、日々継続的に主の愛、天の父の愛を知っていく必要があります。また、悔い改め、内なる人が新たにされ、主の似姿に造り変えられる歩みも、この地上で歩む中で日々継続的にずっと続いていきます。

継続的な悔い改めには、主との親密な愛の関係が必要不可欠です。継続的な悔い改め、キリストの似姿に造り変えられる歩みを続けていくには、主との愛の関係が益々日々深くなっていく必要があるのです。

今日も、主だけを恐れて、「主に愛されていること」と、「悔い改め砕かれ変えられる必要があること」の両方を握っていきましょう。

神様の愛を日々新たに経験し、神様によって砕かれ、神の慈愛によって悔い改めることにも日々導かれていきたいと願い、そして既に神様が私たち1人1人にその愛と恵みを経験させてくださっていること、またこれからもさらにその恵みを増し加え、導いてくださることを感謝します。

苦しみや試練、葛藤の中で私たちを砕き、造り変えることが主の愛の呼びかけであると同じように、私たち自身が日々悔い改め、主の似姿に変えられることを求め選択することが、「主を愛する愛」から出てくるものでありますように。

■A:考えてみよう
今日も主を知り、主の愛を経験し、主との愛の関係が益々深く、親密になるように祈り、願いましょう。

主が私たちを最高傑作に造ってくださったこと、そしてこれからも私たちをイエス様の似姿に造り変えてくださる御霊なる主の働きに感謝し、私たちの心のうちの全ての領域に聖霊様を歓迎しましょう。

私たちを悔い改めに導き、イエス様の似姿へと造り変える主の愛の呼びかけに、今日も日々主を愛する愛のゆえに応答していけますように。私たちの主への愛がいよいよ豊かになりますように。ピリピ1章9~11節、エペソ3章14~21節のみことばをもって自分自身に宣言し、祈りましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ありさ 】

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