■S:今日の聖書の言葉
イザヤ57章20~21節
★しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水と海草と泥を吐き出すからである。「悪者どもには平安がない」と私の神は仰せられる。
■O:今日のコラム
日々の生活に追われているとなかなか静まることが難しいことがあります。祈ろうと思い目を閉じると、なぜかしなきゃいけないことを思いだしたり、様々な感情が湧き出てきたりと、急に頭の中がいっぱいになり、祈りができなくなることを経験します。
そんな中で、以前読んだ本に「祈りを終えた後に自分の中で祈りのレビューをしてみること。それが、本当の祈りのはじまりとなる。」との趣旨のことが書いてあり、多く気付かされたのでシェアさせていただきます。
本の中で推奨されていたのは、祈りを終えたあと、その祈りがどうであったかを思い起こし、そのこと自体を祈りとして神の前にささげるということでした。例えばですが、祈ろうとしたら明日の夕飯をなににしよう、上司にあの仕事の件についてこうやって話を進めよう、等々の思いが湧いてきたとします。一見、祈りに集中出来なかったと思えるかもしれませんが、その祈りを妨げたように思える事柄そのものを祈りの後に振り返りながら神に話すことが、祈りでもあるということが書かれていました。なぜなら、それらは、大抵の場合私たちが心に留めていることであり、重要視していることが多いからです。
そして、主もそれらの日々の瑣末な出来事や、親しい友人にも話すことのできないこと、頭に湧いてきて仕方ない様々な感情にさえも関心を持ち、耳を傾けてくださっていることを感謝したいと思います。
■A:考えてみよう
今日のみことばの箇所には、「悪者」は、「静まることのできない荒れ狂う海のよう」と表現されています。これは、他人事でなく、私自身に日々よく現れる姿だと感じました。
しかし、荒れ狂う思いをひとつひとつ紐解き、主の前に注ぎ出すとき、イザヤ57章に書かれている主の御性質である、平安、へりくだり、癒しに出会うことを感謝します。そして、その出会いを通して、私自身も主のご性質に似る者と変えられることを祈り続けたいと思います。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 れな 】
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