■S:今日の聖書の言葉
イザヤ書53章10~11節
★しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
■O:今日のコラム
今日のイザヤ53章は、十字架にかかってくださったイエス様の姿が象徴される有名な箇所です。
このところを読む時に、自分が命をかけて愛されたということを多くの人が受け取るのではないでしょうか。と同時に、神様は義なる方であります。以前、この愛の完全な形こそが、義なるイエスキリスト、みことばなるお方であるということを聞き、分かっていたはずのことがストンと自分の中に落ちました。
今日の箇所にありますが、十字架によって子孫を見ることができるということは、十字架によって同じDNAが受け継がれるものが産み出されるということです。
十字架によって私たちは神の義が与えられたのであれば、子孫とされた者はこの方の義を持ち、義の道に進む者、イエスキリストの道を進む者とされたのです。
しかし、私はこの義を受け継いでいる子孫と本当になっているかと深く探られます。詩篇119篇を継続して朗読するチャレンジを個人的にしていますが、そこにはエズラが、神様ご自身であるみ言葉を受け取り、生きようとする姿が記されています。
「むなしいものから遠ざけてください、支えてください。」と訴える姿、また、「あなたのことばを守ります。果たします。命がけでなければなりません。」と告白する姿に、自分自身が、何度もこれを繰り返しているように思えます。
義なるイエス様から目をそらし、義を自分の力で打ち立てようとする私がいるのに気づき、その行いのゆえに、今もイエス様を十字架につけ続けている自分を知ります。しかし、なおも義の道を進みたいと願うのです。
その中で、このみことばに目が留まりました。
「あなたが真実をもって私を悩まされたことを知っています。」(詩篇119:75b)
普段生活する中で、仕事、人間関係、経済、健康など、心配や悩みは尽きないのではないかと思います。私たちは、必要に追われて思い煩ってしまいやすい弱さがあると思います。しかしそれに対して、真理を知りたいのに悟れない、真理にとどまれないことに葛藤していることは、真実な悩み、葛藤ではないでしょうか。
なぜなら、義を求める上で生じる悩みは、義の道に置かれるからこそ生まれてくるものだからです。
この葛藤と飢え渇きの繰り返しの中で何度も十字架の前に自分を明け渡し、神の義を受け続ける道、プロセスを通ることは義の道を進む一歩ではないでしょうか。
イエス様を知らずにいた者が、主を救い主としてお迎えする時に、十字架の恵みを味わいます。赦された、贖われた、アーメン!!と心から思います。感謝せずにはいられません。しかし、十字架には深い主の奥義がつまっていることを覚えます。今日も十字架による、神の義を受け取り、義の道を進むことができるのです。だから今日も十字架が私に必要です。
そして、一つずつ不純物が取り除かれるプロセスの中で、マリアがイエスキリストをみごもり、産み出したように、私たちも主の義なる、みことばをみごもり、みことばの実を産み出していく者となっていくと信じます!
■A:考えてみよう
「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」(詩篇23:2~3)
水のほとりにとどまる時に、今日も義の道へと牧者なる神様が私たちを導いて下さると信じます。今日もみことばに留まり、義の道に導かれていきましょう。
十字架の恵みをますます悟らせてくださいと祈り求めて、今日も共に十字架の恵みを受け取り続けていきましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ゆうこ 】
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