■S:今日の聖書の言葉
ピリピ人への手紙3章9~11節

★キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

■O:今日のコラム
ここは私がずっと疑問に思っていた箇所の一つでした。なぜなら、私たちが信仰によって受け取った義は、完全な義であって、もやはサタンが訴えることのできない義であるはずだからです。それなのにパウロは「義を持つことができる、という望みがある」と書いているのです。「パウロはクリスチャンではないのか?いや、そんなはずはない。」私は葛藤しました。

聖書の中に、その答えがありました。私たちが与えられる義には、二段階あります。それはキリストの血で贖われる(覆われる、カバーされる)ことによって与えられる義と、その覆い(カバーリング、関係)の中で神の似姿につくり変えられることによって与えられる義です。信仰の父アブラハムを見てみましょう。

「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。』彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15:5~6)

ここでは、全く行いによらず、アブラハムは信じて義と認められたのです。しかしこうもあります。

「私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」(ヤコブ2:21~23)

ここでは、同じアブラハムがイサクを捧げたその行いによって義と認められたのです。

信仰は聞くことからです。聞いて信じて義と認められます(ローマ10:9)。しかし、信仰は行いによって全うされるのです。この二つを短く言うならば、「聞き従うこと」なのです。行いのない死んだ信仰は、私たちを生かすことはできないのです。しかし行いに結びつく生きた信仰は、私たちを生かし、栄光によみがえらせるのです!ハレルヤ!

栄光によみがえるためには、古い肉に死ななければなりません。死なずによみがえるのは、ただの誕生です。そして死んで葬られることには実際的な試験があります。それは試練と呼ばれます。しかしその従順ゆえの苦しみにあずかることは、今まで知らなかったキリストと出会う瞬間でもあるのです。

ピリピ3章10節にある「キリストの苦しみにあずかる」とあるのは、英語では「the fellowship of his suffering」です。つまり「苦しみの交わり」なのです。ギリシャ語でもコイノニヤ(交わり、共有する)という語が使われています。

私たちは、結婚し愛し合うパートナーとどんな関係でしょう?相手が自分を楽しませてくれる時だけ会って、相手が困っていたり、難しい状況だったら会わないでしょうか?それは結婚のパートナーシップではなくて、楽しくデートがしたいだけの関係と言えるでしょう。

主は愛するパートナーとして私たちを選ばれました。そして相手が耐えられると判断されるなら、ご自身が味わわれた苦しみを共有(コイノニヤ)し、知ってもらいたいと願っておられるのです。主は全てを共有したいと思っておられるのです。キリストと苦難をともにしているなら、キリストとの共同相続人、つまりパートナーなのです。

個人的な証ですが、ある時、私は問題の中に放り込まれ、不条理な訴えの中で人から強烈に侮辱を受けていました。心の中でこんな思いがよぎりました。「やり返したい。相手こそ間違っている。ここが、あそこが。大声で自分の理論をぶつけてやり込めてしまいたい。」しかし、主は、「言い返すな。黙っていなさい。むしろ右の頬を打たれたら左を出せ。」と私に語られました。従う決断をしても一向に状況は変わりません。むしろ相手は「何黙ってんだ!」とヒートアップしていきます。

その中で「一体どうなるんですか?」と、私は主に心の中で問いかけました。すると主は「私も裁判の席で同じことを味わったよ。」と私のすぐ横で語られました。私は嬉しくて涙を流しました。しかし、ハタから見たらいじめられて、いい大人が泣いているような図だったでしょう。

この体験は私を大きく造り変えたのです。キリストと出会うとき、私たちは造り変えられるのです。今は、自分の感情のままにやらなくて良かった、と心から思っています。こうして私たちは、小さな死と葬りと復活を体験し続けて、主を知っていくのです。

パウロはピリピ3章11節で「キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」と語っていますが、ここの復活という語は特別な語で、聖書で一回しか使われない「エクサナサスタシス」という語です。これは詳しい翻訳の聖書では「生きながらの復活」と書いてあります。私たちは、生きながら、毎日が死の連続、毎日が復活の連続なのです。

■A:考えてみよう
御言葉を聞くなら、そのことで死ななければならない領域の死を受け入れましょう。
そして、苦しみをともなってでも実行する覚悟を決めましょう。あとは主に委ねて。

■P:祈り
主よ。私の願いは、この世のものではなく、イエス様です。あなたを知ることのために、地上での歩みの全てを使わせてください。今日も古い人に死に、葬られ、イエス様と新しく出会うことができますように。栄光によみがえられたあなたと一つにされていきますように。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

カテゴリー: マナメール

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