■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書21章2節
★また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。
■O:今日のコラム
聖書に、神様への愛のささげ物の話が繰り返し書かれていることは、興味深いことです。
アベルのささげもの、イサクをささげたアブラハム、少年がささげた大麦のパン五つと小さな魚二匹、石膏の壺を割って高価な香油を主に注いだ女性、御座の前に冠を投げ出して、ひれ伏して御座におられる方を拝む二十四人の長老たち…
これらの人たちは、この心からの愛のささげ物を、ささげないと主から嫌われるからささげたのでしょうか?祝福が減るからささげたのでしょうか?ささげなければ、主が祈りに答えてくださらないからささげたのでしょうか?
それとも、麗しい、素晴らしい、力強く、聖く、優しく、慈しみ深く、正しく、憐れみ深く、恵み深い主、真実で、豊かで、惜しまずに非常に良いものを豊かに与えてくださる主を知ったから、知っていたから、主を喜ばせたくて、ささげたのでしょうか。
私は今ちっちゃなプロジェクトをしています。友人がバラが好きだと言ってくれたので、自分が育てている苗をプレゼントしたいと思っています。上手に育てると、秋くらいにきれいな花が咲くそうなので、水をあげたり、いらない枝を切ったり、虫をとったり、夏バテから回復させる栄養剤をあげたりしてお世話しています。
プレゼントをあげないと友情が壊れてしまうからではなくて、友情があるので、自分が持っている中で一番元気な、一番いい苗をあげたいのです。バラをあげる時までに、バラの株が生き生きと健康に丈夫に育ち、しっかり根を張って強くなり、たくさんのきれいな蕾をつけて、友だちが受け取る時に、この花の最高の状態で咲いて、友だちの心を喜ばせてくれることを願いながら、思い描きながら、育てています。
アベルのささげ物とカインのささげ物、どうして?と思ったことはありませんか?もちろん、小羊はイエス様のひな形で、地の作物は律法のひな形、とか、アベルは初物だったけど、カインはある時期になってから、とか、様々な深い意味があると思います。
でも、一つ思うのは、アベルはささげ物をささげる前から、神様と親しい関係をもっていたのでは、ということです。親しい関係をもって、父なる神様がどんなに良い方か味わっていたので、また信じていたので、この方に自分のいつも働いている手のわざの中から、最高のものを捧げたいと思ったのではないでしょうか。だから、羊の中からその初子、しかも最上のもの、それがアベルのささげ物となったのではないでしょうか。
一方、カインは、自分のささげ物で、主との関係を得よう、主の好意と祝福を得よう、と持って来たように見えます。だから、受け入れられなかった時、恥と怒りとねたみで心が煮え繰り返り、なぜ、あいつのあのささげ物が受け入れられるんだ!と競争心と比較と憎しみで心を燃やし、ついには兄弟を殺してしまったのではないでしょうか。
ダビデを殺そうとしたサウル王、イエス様やパウロを殺した、殺そうとした、ユダヤ人の宗教家たちと同じ霊です。
■A:考えてみよう
自分は自分の出来る最高のささげ物を主にささげているだろうか。ささげていないとしたらなぜだろう?
自分は、ただ、イエス様の義によって、十字架を通して、神様の御元に近づき、主の麗しい臨在の中に入れられ、主の愛に安息し、主の慕わしい御声を聞いているだろうか。
心の扉を開いて、「必ず入って親しく食事をしよう。」と声をかけてくださるイエス様と、親しい交わりを持っているだろうか。
■P:祈り
私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父よ。神を知るための知恵と啓示の御霊を、私に与えてください。
私の心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって信じる私に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私が知ることができますように。
私を愛して、私のために尊い愛する御子を惜しまずに死に渡してくださるほどの御父の愛。私を愛して、御父を愛して、罪となり御父との関係が絶たれることをも恐れず、喜びにあふれて十字架にかかってくださった御子の愛を、ほふられた小羊の血によってきよめられた私の内に住んでくださる聖霊によって知ることができますように。
その結果、主への感謝と愛、敬愛と慕わしさ、喜びに満ちあふれて、私の二レプタを惜しみなくささげることができますように。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 とも子 】
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