■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書19章9節

★イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

■O:今日のコラム
ルカの福音書19章は、様々なイエス様の教えとたとえが書かれていますが、今日はその最初の部分、ザアカイに注目したいと思います。

「それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。」(1節)

聖書でエリコはこの世のことを象徴します。なぜイエス様はわざわざエリコを通って行かれたのでしょうか。

ヨハネの福音書4章に書かれているサマリヤの女の記事にも「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」(ヨハネ4:4)とあります。イエス様のなさるすべての行動は明確な目的があります。このザアカイの話の最後にその理由が書かれていますので、見ていきましょう。

「ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。」(ルカ19:2)

「ザアカイ」という名前は「義人」「きよい人」という意味です。しかし、実際はどうでしょうか。当時の嫌われ者の代表である取税人であり、しかもかしらでした。また、「神か富かにしか仕えることができない」とイエス様が言われたお金を愛している人だったことがわかります。

このザアカイの名前と実際の彼がしていることの違いは何でしょうか。

名前は彼のアイデンティティ、本来の彼の姿です。実際に行っていることは、彼がこの地上で行う本来のことではありません。それゆえにザアカイは人知れず苦しんでいたのではないでしょうか。孤独を感じていたのではないでしょうか。何かわからないけど救いを求めていたのではないかと思います。

私たちのアイデンティティはなんでしょうか。神様が本来私たちをどのように創造されたのでしょうか。みことばの中からそれを知るなら、今自分が行っていることが神の願いかどうかを知ることができます。そして、正しく歩みはじめるなら苦しみ、悩み、孤独から開放されるでしょう。

しかし、罪の生活を続けるのであれば、ザアカイのように本来の神の目的と違う生き方をし、いつまでも苦しく辛く、喜びのない人生となるでしょう。

「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。 」(ルカ9:3)

ザアカイは背が低かったようです。私も背が低いのでザアカイの気持ちがよくわかります。群衆の中で前を見たいのに見えない葛藤を子どもの頃から味わっています。

ザアカイは肉的にも背が低く、また霊的にもいつも低かったということが想像できます。肉体的にも霊的にも人々から嫌われ、虐げられ、圧迫されている様子を知ることができます。

霊的に圧迫されたままでは、また、たましいに傷を追ったままでは主を素直に見つめることは難しくなります。(イザヤ59:1,2)

ではどうすればいいのでしょうか。求め続けるのです。探し続けるのです。叩き続けるのです。(マタイ7:7,8)

ザアカイは見たかったのです。なんとかしてそれを見たいという衝動が抑えられませんでした。それが次の節につながっていきます。

「それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」(ルカ19:4)

ザアカイはどうしてもイエス様を見たかったのでしょう。心の中の思いを抑えることができず、それが彼を行動へと駆り立てます。群衆をかき分け、木にまで登ってイエス様を見ようよとしました。

ちなみに、私は実際にエリコを訪れたとき、ザアカイが登ったであろうと言われる木を見ました。2000年のときが経っているので当時のままではないかと思いますが、とても大きく立派な木でした。

一人の金持ちの人がこのような奇怪な行動を取るなら、周りの人は驚くと思います。白目で見られるかもしれません。しかし、このときのザアカイは「イエス様を見たい!」という思いしかありませんでした。主に対する飢え乾きです。まるで、雅歌に書かれている乙女のような一途な思いを見ることができます。

私たちの中にこのような主に対する飢え乾きがあるでしょうか。もちろん、公序良俗に反することはしてはいけませんが、「何としてでもイエス様に会いたい!」という情熱と行動は大切です。ザアカイは人目も気にせず、実際に行動に移したとき、信じられないことが起こります。

「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(ルカ19:5)

なんと、面識のないイエス様がザアカイを見つけ、「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と言われたのです。イエス様はザアカイを知っていたのでしょうか。私は知っていたと思います。いつからでしょうか。それは世界ができる前からです。

ひと目見たかったイエス様にはっきりと自分の名前を呼ばれたザアカイは、心臓がバクバクして、今まで味わったことのない感動と驚きと緊張があったのではないかと思います。しかも、自分の家に泊まると言われているのです。

同じように、私たちのこともイエス様は知ってくださっています。そして、今日も私たちの名前を呼び続けてくださっています。偶然のように見えるこれらの出来事は必然的に起こったことです。起こらなければならなかったことです。これに対して、ザアカイはどのような行動をとったのでしょうか。続く節を見てみましょう。

「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」(ルカ19:6)

イエス様は「急いで降りてきなさい」と言われたので、ザアカイは急いで降りて来ました。なんと従順な態度でしょうか。彼の心は、ずっと欲しかったプレゼントをやっと買ってもらった子どものように、大きな喜びで満たされていたことでしょう。

今日もイエス様は私たちの名前を呼び続けてくださっています。また、シンプルなことばで「~しなさい」とみことばの中から語りかけてくださっています。それに喜んで、すぐに応答しているでしょうか。聞くだけでなく、行動にまで移すことが大切です。

「これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。」(ルカ19:7)

しかし、一筋縄には行きません。イエス様の呼びかけを聞き、それに従っていくとき、周りの人は様々なことでつぶやき、批判し、迫害することがあるでしょう。しかし、それ以上にザアカイはイエス様との関係に喜びを感じていたはずです。

普段なら周りの彼らの声にビクビクして、翻弄されていたかもしれませんが、今のザアカイは違います。真っ直ぐにイエス様だけを見つめています。イエス様を家にお迎えすることにフォーカスしています。

これが終わりの時代の生き方です。この世と調子を合わせるのではなく、イエス様だけを見つめて歩み、絶えずイエス様を心に歓迎し続けることが大切です。

「ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19:8)

ここに来て、今までの流れと全く異なる展開に話が進みます。なぜ、イエス様がザアカイの家に泊まりに来られることと、ザアカイが施しをすることが関係あるのでしょうか。

その鍵は5節にあったのではないかと思います。イエス様はいちじく桑の木に登っている小さな男に向かって「ザアカイ(きよい人よ、義人よ)」と呼ばれました。イエス様の御口から発せられた自分の名前に、ザアカイは忘れていた自分の使命、アイデンティティを再認識したのです。

本来の自分と、今、実際に自分が行っていることを知り、ザアカイはとても恥ずかしい思いになったのでしょう。イエス様は一言も「だまし取った人に返しなさい」などとは言っておられません。しかし、ザアカイは自らそのことを行ったのです。
これが悔い改めです。

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)

「神の慈愛が悔い改めへと導くのです。」(ローマ2:4)

「まず神様が先に私たちの名前を呼び、愛してくださった。」(1ヨハネ4:19)

だから私たちは悔い改めることができます。

「イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」(ルカ19:9)

このザアカイの行動を見て、イエス様は救いを宣言されました。しかも、詳しい訳を調べると、「この家のすべての者に救いが来た」と書かれています。そして、「この人もまことの霊的なアブラハムの子どもだ」と言われています。

イエス様を信じて、心から悔い改め、私たちの行動が変わるとき、そこに主の救いが訪れます。

今日、私たちは何を変えるべきでしょうか。何を主のために捨てるべきでしょうか。何を主のためにあきらめる必要があるでしょうか。真剣に考えてみてください。それが永遠のいのちへとつながります。

そして、今日の結論に至ります。

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)

これが主がこの地に来られた目的です。このことを示すために、イエス様はサマリアの町をお通りになり、ザアカイに出会わなければならなかったのです。

失われた「あなた」という存在を必死に探し、命をかけてまで買い取ってくださったのがイエス様です。たったひとりのいのちであっても、それを救うために来てくださったのがイエス様です。自分を犠牲にしてでも救い出したい命、それがあなたの命です。

私たちはイエス様を探したでしょう。求めたでしょう。しかし、主もまたあなたを探し、求め続けてくださっていたのです。みなさんがザアカイのように溢れる情熱から主を求めたとき、主はみなさんを名指しで呼び、救いをもたらせてくださいました。これは偶然ではなく、起こらなければならなかったことなのです。

イエス様がもたらしてくださった救いの恵みに感謝しようではありませんか。

■A:考えてみよう
今日の内容をもう一度見返して、神様が私にしてくださった創造の御業、また私の中に罪による堕落、そこからイエス様の十字架に寄って救い出されたということを時間をとり、静まって真剣に考えてみてください。

■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたが私を世界のできる前か知っておられ、今もなお名前を呼び続けてくださっていることを感謝します。しかし、その呼びかけに応えていなかったのはこの私であることを認めます。
私をもう一度初めの愛に引き戻してください。私が創造されたことの喜びを教えてください。そして、罪がどれほど恐ろしいかを教えて下さい。そこから救われたという考えられないほどの恵みを悟らせてください。
ザアカイが悔い改め、行動が変わり、もとのアイデンティティーに戻されたように、今日、私を本来神様が造ってくださったかたちへと引き戻してくださいますように。

愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【 しゅん 】

カテゴリー: マナメール

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2 個のコメント


  1. よりこ より:

    マナメール、毎日 思いを新たにしてくださり感謝です。
    携帯の都合なのか、設定を直しても隔日でしかメールが届きませんので、毎朝の配信は解除しましたが、ホームページのほうで見させていただいています。
    皆様のお働きに主が臨んでくださっていることを確信し、感謝します。

    • 管理者 より:

      あたたかいコメントいただき、ありがとうございます。
      マナメールの配信ですが、ご登録頂いている方に一斉に配信しております。
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