■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書13章23~25節

★すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」と言う人があった。イエスは、人々に言われた。「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

■O:今日のコラム
現在私たちが耳にする福音は、広い門から入る救いであり、悔い改めなくても、罪の生き方をしていても、主に不従順でも、御言葉に従わなくても、イエス様の十字架の恵みによってみんな救われる。という教えを聞きます。果たしてそうなのでしょうか。聖書の中でイエス様はそう言われているのでしょうか。

ルカの福音書13章で、イエス様の教えを聞いた人から質問がありました。それは「主よ。救われる者は少ないのですか」という内容のものでした。その質問に対してイエス様は「違いますよ。誰でも、どんな生き方をしていても救われるのですよ。」と言われたでしょうか。そうではありません。イエス様はここで「努力して狭い門から入りなさい。」と言われています。

では、この様な箇所を読む時、現在私たちが信じている「恵みの福音の神学」に合致しません。ある人々は、この様な箇所をすべて「十字架の恵み前の律法の時代の教え」として片付けてしまいますが、私たちの主は昨日も、今日も、いつまでも変わることのないお方であり、初めであり、終わりであるお方です。つまり十字架前であろうと、後であろうと主の教えは一貫しているのです。

では変えなければならないのはどちらでしょうか。私たちの理解に合うように御言葉を変えるのでしょうか。そうではなく、御言葉の真理と一致するように私たちが変わらなくてはなりません。

もう一度ここで主イエスが言われている言葉を朗読し、黙想し、思い巡らしたいと願います。

「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。」

この様な箇所を読む時、「ああ。これは罪深い、神を知らない人のことを言っている箇所だ。私には関係無い。」と思ってしまってはなりません。「主よ。これはまさに私自身への御言葉です。悔い改め、方向転換し、狭い門を進んで行く者となりたいです。」と祈りましょう。

狭い門から入るには努力しなければなりません。それは、律法的な自分の義による努力では無く、キリストを愛する花嫁の内側から出て来る「愛による努力」であり、御霊に満たされ主に従順に生きる「御霊の喜びによる努力」であり、父なる神を敬い、恐れるが故に敬虔に生きる「敬愛による努力」です。その努力する為の力も全て主から注がれる恵みである事を感謝します。

■A:考えてみよう
パウロは自分自身がどこに立っているか信仰を吟味することを勧めています(第2コリント13:5参照)。

今日の主イエスが言われた御言葉を、何度か朗読して、黙想し、本当に自分が主イエスが語られた福音の歩み、狭い門を行く道に立っているか、どうか。自分自身の信仰を吟味し、祈る時を持ちましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

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