■S:今日の聖書の言葉
ヨシュア記3章13節
★全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。
■O:今日のコラム
今日の箇所は、いよいよイスラエルの民がヨルダン川を渡っていく場面です。この時は、刈り入れの時であったために、ヘルモン山の雪解けと、春の雨とで水が岸まであふれるような状態であることが分かります(15節参照)。
しかし、出エジプトし、荒野を経て、いよいよ約束の地を前に、ヨルダン川を渡らなければならなかったのです。
水を渡っていくこと、このことを思う時に、紅海での体験を思い出すのではないでしょうか?では、紅海の時との違いはなんだったでしょうか?紅海では、「モーセが手を海の上に差し伸ばす」と水が分かれた、と記されています。(出エジプト14:21)
しかし、ヨルダン川を渡る時に、今日の箇所にあるように、「足の裏が水の中にとどまる」時に水が分かれるように主がされたのです。黙想する中で、同じような水が分かれるみわざであっても、その時々によって、主の語られることは違うことを示されました。
しかし、私たちは、神様でなく、後ろや周りを見て、以前はどのようにして歩んだのか、どう教えられているか、皆はどう歩んでいるかなどに目を留めやすいのではないでしょうか。みことばそのものよりも、みことばから生まれてくる、証しや、体験、方法、適応などにフォーカスを置きやすいこと、また昨日までの受け取り方に重きを置くことを思わされます。
しかし大切なのは、その源なる、主がなんと言っておられるかに目を留めることです。ここでイスラエルの民も、「以前は手を差し伸ばして渡った。そのことを聞かされてきているから、同じ方法をとろう。」と思ったならばこの奇跡はなかったでしょう。そのような人の思いや考えを置いて、今生きておられる方の今日語られる語りかけに目を留めたからこそ、主の奇跡を体験したのです。
「あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。右にも左にもそれてはならない。」(申5:32)
「主が正しい、また良いと見られることをしなさい。」(申6:18a)
もう一つ、ヨルダン川で足を踏み出すことには、実際の行動が伴っていることが分かります。紅海の奇跡は、目に見えて開けた海の中に足を踏み出していきますが、ヨルダン川の奇跡は、足を踏み出さなければ、水は分かれなかったため、踏み出す決断、信仰が必要であることを思わされます。
では、信仰は私たちにはありますか。ありません。信じなさい!と無理やり自分をたたきこんでも、自分に言い聞かせても、どれだけ熱心になったところで信仰は生まれてはきません。
信仰は、イエス様にあるからです!イエス様こそ信仰そのものなるお方であるからです!ですから、私たちから何かを生み出していくのではなく、完全な信仰であられるイエス様の中に入っていくことが必要なのではないでしょうか。
私たちから生まれる限界のある信仰ではなく、完全な信仰の中を歩むことこそ、ヨルダン川を渡って約束の地に入っていくために通らなければならないプロセスであると思います。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)
「主」の約束の地に入っていくには、私の性質、方法、やり方は手放さなければなりません。自分に死ぬ必要があることを覚えます。
完全な信仰なるイエスキリストと一つになる、その中に入ることによってことこそ、私たちも信仰を持つ者になれると信じます。
■A:考えてみよう
・主よ語ってくださいと言いながら、どこかで、今までのやり方、言われてきたことなどに目を留めていませんか。これまでも主は語っておられましたが、主は今日も語っておらえるお方です。
ヨルダン川にいたる前に、荒野で御声だけに聞き従う訓練があったがゆえに、イスラエルの民は、主の方法に耳を傾けることができたのではないでしょうか。ですから、今日語られる御声に耳を傾けましょう。
・自分の信仰ではなく、主が生きてくださることによって、それぞれ今ある問題や試練を乗り越えていけるように、祈っていきましょう。
■P:祈り
愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 ゆうこ 】
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