■S:今日の聖書の言葉
申命記21章22~23節

★もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

ローマ人への手紙5章19節

★すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

■O:今日のコラム
私たちは生きていると、様々な問題に直面します。その中でも、人類にとって最も大きな問題とは何だと思いますか?それは「死」です。アダムから始まって今に至るまで、死を経験しなかった人物は二人しかいません。私たちが生きたまま空中に携え挙げられなければ、私たちの死亡率は100%ということになります。だれもこの死から逃れることはできません。

聖書の中では三種類の死を見ることができます。

1つ目は肉体の死です。これは全ての人が経験し、理解することができるでしょう。2つ目の死は霊的な死です。これは、イエス様を信じていない時に起こっている状態です。3つ目の死は最も恐ろしいもので、永遠の死です。神との永遠の断絶ということです。

では、どのような人が死を経験するのでしょうか。

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

罪と死は密接な関係があります。この罪は人の力ではどうしようもないことです。今日の聖書の箇所、ローマ書の5章に、この罪に関してのことが詳細に書かれています。ぜひ、このマナメールを読むだけで満足するのではなく、自分で自分の聖書を開き、そこからあなたが直接神様からみことばを受け取ってください。

特に、今日からのローマ5,6,7章には罪に関しての事柄がとても多く扱われています。そしてやってくるローマ書の頂点とも言える福音の章、ローマ書8章に至ります。

罪が何であるかを知らずして、本当の救いを受け取ることはできません。罪がどれほど恐ろしいものであるかを知ったなら、救いの恵みと喜びがどれほどであるかを知ることができます。

さて、今日のもう一つの聖書箇所申命記の最後には死刑に関する律法の規定が書かれています。そこでは、木につるされて殺されたものは、その日のうちに埋葬されなければならないということ、また、木つるさられた者は呪われたものだということが書かれています。この箇所を読んで、ある聖書箇所が浮かんできたでしょうか。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」(ガラテヤ書3:13)

イエスの血潮を宣言する祈りの12の宣言の中にも出てくる聖書箇所です。ここで書かれている「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」とは、まさにここから引用されたものです。

イエス様は完全な神であり、完全な人としてこの地に来てくださいました。このお方のうちには何一つ罪を見つけることができません。ただひとり罪をひとつも犯すことなくこの地で生きられた聖なる聖なる聖なるお方です。

先程、死と罪は密接な関係があるとお伝えしました。では、なぜ、イエス様には何一つ罪がないのに、イエス様は死なれたのでしょうか。それは、私たちの罪を自ら背負ってくださり、私たちの身代わりとなって父の怒りを受けてくださったからです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ書5:8)

これこそ、神の愛です。私たちの信じる神様はただ一方的に私たちに命じるだけではなく、実際にひとり子をこの地に遣わし、御子もまた父の戒めに従い、実に死にまでも従われたのです。実際的な行動を持って私たちに神の愛を示してくださいました。ここに神の愛があります。

最初の人、アダムは父の戒め、園にある善悪の知識の木から取ってはならないというたった一つの戒めを守ることができませんでした。これは父に対する不従順です。この不従順のゆえに、全ての人に罪が及びました。

しかし、御子の父に対する徹底した従順が、私たちに永遠のいのちを与えてくださったのです。何という恵みでしょうか。何という信じられないことが私たちに起こったのでしょうか。この事実を知って、感謝が溢れてきませんか?

もし御子がおられなかったら、私たちには何の希望もなく、永遠の死が待っているだけでした。しかし、このお方により、私たちは救いの道へと導かれ、永遠のいのちを持つことができるのです。

今日、罪とは何か、また救いとは何かをみことばを開き、黙想し、神様から受け取ってみてください。

■A:考えてみよう
聖書が言う三つの死はどのようなものですか?
木にかけられるものはどうなると書かれていますか?
神様はどのようにしてご自身の愛を私たちに明らかにしてくださいましたか?

イエス様は喜んで十字架に向かわれたのでしょうか。もちろん、その先にある栄光を見ておられたことは確かでしょうが、父なる神との断絶ということに対する恐れがあったのではないかと思います。イエス様をもってしても、諸手を挙げて十字架に進まれたわけではなく、葛藤と苦しみがあったと思います。

そのためにイエス様はゲツセマネの祈りで、汗が血に変わるほど苦しみ、祈られました。それは自分の願いを超えて、父なる神の願いの通り行動することができるようにとの願いだったのではないかと思います。

イエス様に従う私たちは、イエス様が通られたこの苦しみを通ることを決断しますか?それとも、自分のやりたいことを優先して別の道を歩みますか?いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです(マタイ7:14)。

救いの達成に努め(ピリピ2:12)、内なる人がキリストの似姿へと変えられていくために、今日もみことばを読み、そこに書かれている基準に自分を合わせていきましょう。

■P:祈り
愛する天のお父さん、あなたの遣わしてくださたった御子、イエス・キリストを心から感謝します。神の愛が形となって、天から私のところに来てくださった事を感謝します。このお方を通してでしか、まことの救いの道に入ることはできません。私に永遠のいのちが与えられていることを感謝します。
しかし、私の内側を見ると、そこにはみことばの基準とかけ離れた部分があることを認めます。これは神のご性質と対局にあるものであります。私はこれを取り去りたいと節に願い、祈り続けていますがなかなかそれらは私から離れ去りません。自分の力では罪の問題を処理できないことを認めます。ですから聖霊様、どうか弱い私を助けてください。罪の性質を捨て去り、あなたがくださる聖さの中を歩むことができるように助けてください。
イエス・キリストのいのちである血潮の力を私の内なる人に宣言します。そして、私の心の中心、わが内のシオンの中心を聖霊様に明け渡します。自分に死んで、キリストに従うことができる力を与えて下さい。
キリストが父に対して従順であったように、私も従順になることができるように助けてください。

愛するイエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【 しゅん 】

カテゴリー: マナメール

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