■S:今日の聖書の言葉
ローマ人への手紙6章11節
★このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
■O:今日のコラム
パソコンで新しいソフトをインストールすると、今まで使っていたものよりも格段と優れた機能が使用出来るようになります。外側のハードは変わらずとも、その中のソフトが変わる時、パソコン全体がアップグレードするのです。
私たちの考えは人生を形成するとても重要なものです。考えが変わることを通して、まるでパソコンのソフトのように私たちの信仰の歩み全体がアップグレードするようになるのです。
箴言には「彼は、心のうちでは勘定ずくだから。」(箴言23:7a)と記されていますが、これは別訳では「彼は、心で考える通りの人である。」という意味で書かれています。
考えが私たちの人生を形造り、私たちは自分の心で考えた通りに生きるようになります。主イエスは十字架の上で血を流し、罪からの完全な贖いを成し、人には出来ないことを御自身の責任として完了して下さいました。この主イエスの十字架を通して私たちの救いの道が開かれました。しかし、私たちは自分の責任を忘れてしまってはなりません。
十字架の贖いは主の責任として神が自ら果たして下さいました。しかし、その贖いを受け取り、血潮により身を洗い、御言葉の約束を信じて思いを一新するのは私たちの責任です。だからパウロが今日の箇所で言っていることを心に覚えましょう。彼は「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」と言っています。十字架の贖いの恵みを私たちの思いの中にも受け取る必要があるのです。
もし自分自身のことを「罪に支配された汚れた者」と思っているなら、そのような行いを繰り返して生きるようになります。聖書には「犬は自分の吐いた物に戻る」とか「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」ということわざがしるされています(第2ペテロ2:22参照)。この意味は私たちのアイデンティティーが汚れているなら状況や環境が変わってもまた同じ状態に戻ることを意味しています。
私たちが主にあって何者であるかを知り、その真理を受け取り、告白し、心に刻んで行くなら、私たちは必ずそのように生きます。以下の宣言を繰り返し告白し、思いを一新しましょう。また以下はほんの一例にしかすぎません。日々、御言葉を朗読する中で主の約束を発見し、繰り返し自分の口で告白して、私たちのたましいに真理を刻んでまいりましょう。
■A:考えてみよう
「イエス・キリストの十字架によって私は完全な贖いを受けました。」
「主イエスにあって私は罪赦された者です。」
「私は罪から解放されました。」
「私は罪に定められることがありません。」
「イエス様が私の主であり、私は義のしもべです。」
「私は神の使命に生きます。」
「私は神の子、神の国の相続者です。」
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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