■S:今日の聖書の言葉
ローマ人への手紙2章28~29節
★外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。
■O:今日のコラム
割礼はイスラエル人が契約の民であることのしるしです。現代においてもイスラエル人は生まれて八日目に割礼を施します。なぜ八日目なのかというと八は新しいスタートを表す数字だからです。
ノアの家族は、箱舟から出て新しいスタートを切りましたが、その人数は八人でした。一週間は七日で終わり八日目は新しいスタートです。私たちも肉なる者として世に生まれますが、隠れた心の肉を切り捨てて、キリスト者として新しいスタートを切りました。ハレルヤ!
私たちが新しい契約の民であるしるしは、心の割礼にあるのです。肉の割礼は刀、ナイフ、メスなどで行われます。しかし、心の割礼は御霊によってなのです。
ヘブル語のアルファベットの三文字目は「ギメル」です。一文字目は「アーレフ」で、単語の中で用いるときは無発音ですが。これは目に見えない神の本姓を表し、父なる神を表しています。
二文字目は「ベイト」で家という意味ですが、これは神の家のかしらである御子、イエス・キリストを表しています。
三文字目は何を表しているでしょう?父、御子ときたら当然、御霊です。へブル語アルファベットは象形文字なのですが、三文字目の「ギメル」は刀の形をしています。エペソ六章の神の武具にある、御霊の与える剣である神の言葉という聖句を連想させます。
エペソ6章で言葉と使われるギリシャ語はレーマです。レーマは、主が御霊によって語られた言葉を指しています。これによって自分の肉が刺し貫かれ、切り捨てられ、心の割礼が与えられていきます。
私たちは、語られた御言葉の前に抵抗してはいけません。あきらめてへりくだって自分の肉の性質を差し出すのです。主は、今そこを取り扱いたいと願っているのです。
肉の割礼でも、抵抗し暴れるなら割礼を施すのは困難でしょう。心の割礼においても同じです。抵抗してはいけません。暴れてはかえって痛い目を見るでしょう。素直にへりくだって「どうぞ主よ。私の肉の性質である〇〇を差し出します。あなたの御心こそなりますように。私は御言葉に従いたいです。」と祈りましょう。
私たちには悔い改めが毎日必要なのです。そうするならば、契約のしるしである心の割礼は、人目に隠れているところから、誰の目にも明らかなものに変わっていくでしょう。隠されているのは、明らかにされるためです。
このことは人からの評価を気にして始まることなく、人からの評価を気にして完成することもありません。神の目を意識し、神からの評価を求めて、神の御前にするのです。その誉れは神から来るものです。誉れはヘブル語でヤーダーです。ユダヤ人のユダは、このヤーダーからきています。
ユダヤ人、神の民、「あなたは私の民」という誉れは、人からではなく、主から来るのです。
■A:考えてみよう
語られた御言葉の基準に生きていない自分に対して、悔い改める時間を持ちましょう。毎日の悔い改めを習慣化しましょう。マンネリではなく、心に悲しみの感動を新鮮に感じるまでやってみましょう。
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます」(第2コリント7:10a)
■P:祈り
主よ。私の罪を赦し、憐れんでください。私の〇〇(自分の罪を入れてください)を告白します。自分ではどうにもならないことを認めます。お救いください。イエス様の血の力を宣言します。それゆえに、私にまといついていた〇〇の霊よ。私にとどまることを禁じる。離れ去って行け。かわりにお前が奪っていた神からの恵みを返せ。イエス様の御名で命じる。主よ。あなたの十字架の恵みを感謝します。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
オンライン献金はこちらから。
大きな額の献金は手数料の少ない口座振り込みをお勧めいたします。